2期・84冊目 『「特攻」と日本人』

「特攻」と日本人 (講談社現代新書)

「特攻」と日本人 (講談社現代新書)

出版社 / 著者からの内容紹介
「英霊論」「犬死に論」を超えるために!
7000名に及ぶ特攻戦没者。長い間、政治的なバイアスがかかり、彼らの真意は伝えられなかった。昭和史研究の第一人者が、彼らの真意は伝えられなかった。昭和史研究の第一人者が、遺書・日記を新しい視点から読み解く。

『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく』を読んだ後、特攻について更に詳しく、賛美にも否定にも偏らずに客観的に書かれた書籍を読みたいと思って選んだ一冊。


太平洋戦争終盤に行われた特攻作戦については、戦後様々な論評がされている。死を前提としたという極めて特殊な作戦につき、概ね否定的な意見であるが、立場によって意見は大幅に異なる。
自らを犠牲にして国や国民を守ろうとした精神を祭り上げる賛美論から、既に勝敗は決していた状況の中ということからの犬死論。もっとも穏和なのは彼らも戦争の犠牲者だったという同情的な意見。


ただし、戦争全体の様相を見ずに如何にも現代からの視点で特攻だけを論じているだけであったり、建前上志願という形の命令を受けざるを得なかったという特攻隊員らの心情を無視しているものであるという。
そして当時命令する側だった人たちの中には、「出撃は自発的であった」「当時の状況から仕方なかった」と主張し、まるで責任回避しているかのような弁が目立つ。*1


そこで本書では隊員の遺書を多く読み、特攻隊の生き残りを始めとする関係者への取材までこなすなど特攻研究に豊富な経験を持つ筆者が感情に偏らない冷静な分析を行おうとするものである。

特攻隊員の実態

『指揮官たちの特攻』にも記載されたいたことだが、本職の軍人*2は隊長などごく一部であり、特攻と言えば昭和19年以降に国公立大学や専門学校を繰上げ卒業し入隊した学生達、いわゆる学徒出陣によって急遽にわか作りの士官とされた人たちであった。
同著において城山三郎は、海兵・陸士出身の士官を特攻に出し惜しみしたのは、本土決戦に向けての温存という建前と、参謀・司令クラスによる仲間意識(エリート意識)があって、むざむざ死地に向かわせまいとしたのではないかと記している。
そこで学徒動員の二十歳過ぎたばかりの学生達が、特攻要員として大量に確保されたのだと指摘されている。
本書を読んでみても、高等教育を受けた学生としての資質がパイロットにも活用できたという面も無くは無いが、既に機材や燃料にも不足を来たし、連合軍とまともに渡り合えくなっている状況では、やはり特攻予備軍として軽々しく命を使い捨てられたとの感が強い。

特攻隊員の遺書

『きけわだつみのこえ』を補足するかたちで未公表の部分を含めて遺書が載せられている。時には同じ人の手記を時系列で紹介して、心境がどう変化していったかまでわかるようになっている。これらをどう読むか。
高等教育を受けた彼等の文章は格調高く、体制を批判するもの*3や死の恐怖を書いたものは殆ど無く、率直に家族・故郷を想うもの、敵愾心と出撃に逸るものとなどが多い。


その言葉をそのまま受け取るのではなく、彼等がどういった状況の中、「予定された死」を受け入れるようになっていったを慮る必要があると説く。
戦争中とはいえ、まだ20代前半の若さで死というのはやはり受け入れ難いもの。その煩悶は大きかったであろうが、それについては軽く触れるだけでもっぱら後に残る人々を思い遣っていて健気である。
特攻隊員たちの遺書を見る際には、そこに辿るつくまでに自らに死を納得させる過程があったことを肝に命じなければならないという重要なことに気づかせてくれる。

意外と知られていない事実

  • 台湾沖海戦末期の昭和19年10月15日、第26航空戦隊司令・有馬正文少将自ら一式陸攻を操縦して敵艦に突っ込んだ。しかしこれを特攻と関連付けられた報道はされていない。*4
  • 海軍で初めて特攻を発令したとされる大西瀧治郎中将。通常の航空攻撃に期待できないためにやむを得ず発案したとされているが、実は事前から軍令部の指示があったのではないかという説もある。*5

やはりここにおいても、現場に責任をかぶせて自らの非を巧妙に隠そうとする(現在にも通じそうな)海軍高級官僚の保身が垣間見えると指摘している。

  • 特攻専用兵器の開発においては、現場を知る下士官からの発案と、軍令部からの指示によるものと二つのルートがあった。現場を知る側としては、既存の航空戦力の質・量ともに凋落する一方であることを知っていて、通常の戦術では敵に勝てないことから非常の手段であった。(最初は上層部も「そこまですることはない」と却下していた)


最初は死を前提とした攻撃方法に抵抗があった軍上層部も、一度はずみが付くと熱心に推し進めるようになり、実際の効果の有無に関係なく特攻一本槍となってしまった。本書では、一度筋道がついてしまうと極端に走る日本人の特徴が特攻という悲劇の拡大を生んだのではないかと指摘。たまたま最初の神風特別攻撃隊が空母数隻*6の撃沈破に成功してしまったことに目がくらみ、その後米軍が特攻に対する防衛体制を整えても同じ戦法を繰返す。まさにこの戦争全体を象徴しているようである。


全体的に、今まで知らなかったこと・自分が表面的にしか理解していなかったことを痛感させられた書かれた内容である。戦争自体に興味を持ちつつも特攻という悲劇にまともに向かい合ってこなかったつけであると思う。そこで本書を読んで本当に良かった。感情的な文章も目につくが、できる限り筆者が一人一人の特攻隊員の立場に立とうという気持ちが汲み取れるので嫌味ではない。


最後に、あとがきにおける「私たちの国は、ひとたびこうした行動に走れば、際限のない底なし沼に落ち込んでいく性格をもっている。特攻作戦はまさにそうだったのだ。」という一文にはおおいに頷けるが、「特攻」を理解するために、あの戦争全体もしくはそれ以前を通して特攻を生み出すまでに至った歴史的背景まで言及してほしかった気がする。

*1:中央からの圧力にも負けず特攻を拒否した司令官や、終戦時に自決など何らかの形で責任を取った将校はごく一部

*2:海軍で言えば海軍兵学校、陸軍で言えば陸軍士官学校を卒業した人

*3:検閲があったので、すぐわかるような内容はまずありえない。

*4:「もともと有馬少将、戦争は年齢の高い者から順に死ぬべきだと言い、自らの機で体当たり攻撃を行ったとされている」こういった考えが軍上層部としては容認できるものではなかったのであろうと著者は書く。尚、海軍の特攻第一号は10月25日の関行男中尉とされる。(10月21日の久納好孚中尉とする説もある)

*5:特攻専用の兵器は昭和19年夏頃より開発が進められていた

*6:ただし装甲の弱い護衛空母