2期・95冊目 『落日燃ゆ』

落日燃ゆ (新潮文庫)

落日燃ゆ (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
東京裁判で絞首刑を宣告された7人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官であった元総理、外相広田弘毅。戦争防止に努めながら、その努力に水をさし続けた軍人たちと共に処刑されるという運命に直面させられた広田。そしてそれを従容として受け入れ一切の弁解をしなかった広田の生涯を、激動の昭和史と重ねながら抑制した筆致で克明にたどる。

城山三郎氏の著作において『指揮官たちの特攻』に続いて読みたくなった一冊。
2.26事件、満州事変、日中戦争と着実に破滅への道を辿る激動の昭和初期において広田弘毅は名は短い期間首相を務めたということで少しは知っていたものの、さほど注目することが無かった人物でした。


貧しい庶民の出ながら、必死の努力で帝大(東大)まで進学した広田弘毅(丈一郎)。そこには家族・友人・郷土の先輩といった人々との絆があり、そして日清戦争後の三国干渉により、国の為に己が為すのは外交であると強く決意した様子が描かれています。
外交官となってからは、立身出世や政治的な活動とは無縁で、ひたすら地道に情報収集や関係国の研究に努めるという真面目はまさに外交官の鏡と言えましょう。それが人望に繋がり、地位が上がって他国と交渉にとなる際は誠意ある態度で相手の信頼を得る。


陸・海相と渡り合って「皇国国策基本要綱」を骨抜きにしたり、東支鉄道買収交渉の妥結。国会における「私の在任中に戦争は断じてないことを確信しているものである」発言などなど。まったく、広田弘毅による協和外交が史実よりも充実・継続されていたら、昭和10年代の国際関係はずいぶんと様子が変わっていただろうと思わせます。それが陸軍をはじめとする強硬派によって随分と無駄にされてしまうのですが。
そんな人物が極東軍事裁判A級戦犯の中でも唯一文官として絞首刑という判決を受けたのはどういう理由であったのか。長年放置していた疑問が読んでいくうちにふくらんでいったのですが、そこは綿密な考証による裁判経過によって後半明らかにされます。


ナチスによる一党独裁のドイツと違って、満州事変以降の日本は計画的に戦争を起そうとしたというよりは、現地部隊の強硬的手段に中央がずるずるとひきずられ、国内においても官民ともに冷静な意見より勇ましい言葉が幅をきかせていった時代でした。そして責任者や窓口というものが複数あって、しかもその時の状況次第で姿勢が変わる。ただいずれにしても紛争が勃発するたびに政府としても穏健な手段は取れなくなっていく。
そういう特殊な状況を裁判で糾す側はほとんど理解し得ず、強圧外交を計画・指導した文官の大物として広田弘毅が目をつけられてしまったというのが大雑把な事情でしょうか。軍人以外に大きな役割を果たした人物が自決または病死し、そして何より広田弘毅自身が一切言い訳しなかったのが大きかったようです。


たとえ自身は懸命に平和を目指したとはいえ、結局は戦争を防げなかった責任を取らざるを得ないという彼の信念に真の指導者の姿を見出します。多くの被告が減刑を望み、他者の言動や判決に一喜一憂して生への執着を見せるのに対し、早々に死を覚悟して一人平然と過ごすあたりは収監されている軍人たちよりも武人らしい。
ただ、裁判に臨み、日本の外交の成果を明らかにするためと後輩に証言を依頼しながら自身はほとんど証言しなかったのは悔やまれる。堂々と自身の外交成果を発表してほしかったと思った私は凡人でしょうね。