こちらも歴史小説の購入リストには入れたものの、新撰組を取り上げた小説をそこそこ読んだつもりになっていた私にとって、すぐに読みたいと思わせるほどでもなかったのです。
別に浅田次郎は嫌いではなく、逆に良い作品を書く作家だという認識がありながら、です。
ところが今さらになって読んでみたら「歴史的にさほど有名でない人物を魅力的に描いた歴史小説」にぴったりじゃありませんが。まったくもって自らの不明を恥じるばかりです。
南部藩の貧乏足軽の家に生まれた吉村貫一郎。
愛すべき家族がいながらも、藩内の境遇に絶望を覚えて脱藩の道を選び、入隊した新撰組においては、幹部に匹敵するほどの剣の腕を持ち、かつ教養にも優れた文武両道の武士でした。
しかしながら極めて金に卑しく、同輩だけでなく後輩からも「守銭奴」と蔑まれたとか。歴史的には全く無名な人物であります。
そんな彼はいったいどんな想いで人生を歩んできたのか?
なぜそこまで金に固執しながら、人を斬ることを厭わないのか?
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗戦の末、満身創痍となって駆け込んだ南部藩大阪屋敷にて切腹を命じられ、人生最後にあたっての彼自身の想いと、時は変わって大正年間において彼にかかわった人たちによる回顧が織り交ざって展開されます。
このあたりの展開は巧妙で、飽きさせませんね。
読む方の「なぜ?」という気持ちを捉えつつも、一気に出さずにじわじわと少しずつ人物像が明かしていきます。
中でも印象的であったのは、吉村貫一郎を憎んでいたはずの斉藤一による述懐です。まさに水と油ほどに違う人物であったのに、次第に感化を受け、瀬戸際まで追い詰められた戦いにおいてはこんな場面が見られます。
それはわしが後にも先にもこの世で初めて見た、まことの武士の姿じゃった。たったひとりの、いや、ひとりぼっちの義士の姿じゃった
(中略)
誰が死んでもよい。侍など死に絶えてもかまわぬ。だが、この日本一国と引き替えてでも、あの男だけは殺してはならぬと思うた。
そして会津の戦いの後、流刑地へ向かう途中で見た盛岡の自然の風景に彼の故郷への想いを馳せて、斉藤一は涙を流します。*1
すいません。このあたりで私も涙しそうになりました(電車の中だったので堪えましたが)。
後半は、故郷に残された家族の顛末や、親子2代にわたって吉村の親友であった大野父子についても迫っていきます。
長男・嘉一郎はなぜそこまで意固地になって死に急いだのか?
嘉一郎の必死さには哀しさを感じる反面、長女・みつや次男・貫一郎(父と同名)のその後には救われる思いでした。
そして親友でありながら、上役として吉村貫一郎に切腹を命じた大野次郎右衛門の真意については、最後になって漸く彼自身の手紙によって明かされます。当時の文体のままですがじっくり読む価値ありです。
吉村貫一郎という人物については、残された史料も少なく、どのへんまで史実か虚構か判断が難しいですが、いずれにしろここまで魅力的に描いた本作品には脱帽しました。