10期・1冊目『ドリナの橋』

ドリナの橋 (東欧の文学)

ドリナの橋 (東欧の文学)

ユーゴスラビアノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの代表作であり、著者自身が幼少の頃過ごしたドリナ川に面する街・ヴィシェグラードを舞台にして300年余の年月が過ぎゆくさまを描いた歴史長編小説です。


16世紀、世界有数の大国であるオスマン帝国の宰相・ソコルル・メフメト・パシャは東欧出身であったが、トルコに帰化して長らく故郷のことを思い出すことはなかった。
しかし権力の頂点にあっても、帝国の都に連れられていく際に故郷の町から小舟に乗ってドリナ川を渡った時の暗く不安な想いを忘れることができず、それは黒い刃のように心に刺さったままだった。
そういったパシャの個人的な思いが、今まで渡し守の船によってしか渡ることができなかったドリナ川の流れに橋を架けるという一大事業として動き出します。
当初は強制徴用された労働者のサボタージュもあったが、監督が変わって相応の報酬が出たことなどによって建設が順調に進み、10年の年月をかけてソコルル・メフメト・パシャ橋は完成しました。
建設前は冷ややかな態度と取っていた住民たちは手のひらを返すように白く美しい石造り橋を街のシンボルとして扱ってゆくのです。
橋の完成によってヴィシェグラードは要路の街として発展、袂には旅人が宿泊できる施設が運営され、多くの人が橋を行きかうようになりました。
橋上の石でできたソファは街の人々に憩いの場を与え、時間によってさまざまな人が集うようになり、橋は人々の生活とは切っては切れない関係となっていきます。


当初はバルカン半島から東欧にかけて伸長していたオスマン帝国もその国威が衰えてゆくに連れ、欧州各国に押されたり占領地の反乱などによって東欧の領地を手放すことになってゆく。
ヴィシェグラードの地もそういった国際情勢とは無関係では無く、時代によって異なる軍隊が進駐してきたり、若者が兵隊に取られたり。
また経済や文化にも影響を与えている様が描かれます。
そういった時の移ろい、人間模様を著者は実に暖かな目線で丹念に綴っていますね。そこに宗教や民族の分け隔ては感じられません。
国境の街という環境からヴィシェグラードはトルコ系・スラヴ系、その他の地域出身の民族が混在し、主な宗教もギリシャ正教キリスト教イスラム教・ユダヤ教と分かれていますが、表面上は対立もなく互いを認めて暮らしてきたという印象を受けました。
ユーゴスラビアというと、冷戦時代は東側の構成国でありましたが、その後連邦崩壊によって複数の国に分裂、90年代に始まった紛争によって民族は激しく対立し、虐殺など多くの悲劇に見舞われた地域です。
そういった複雑な環境は日本人にとっては理解しにくいのですが、周辺の大国によって翻弄されてきた歴史的経緯がその一因であったようです。
その一端が本作を読むことによってわずかながら理解できた気がしますね。


第一次世界大戦の勃発、その一つであるオーストリアセルビア間の戦火に見舞われ、遂に橋は爆破されてしまいます。
近代の影響を受けつつある街の中で頑固に我が道を通していたトルコ系の老人が橋の破壊を見届けた後に自らも果てたラストが波乱に満ちた彼自身と橋の歳月を締めくくっているようで、静かながらも非常に印象に残りました。