3期・18冊目 『八甲田山死の彷徨』

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

来るべきロシアとの戦いに備えて、青森方面の鉄道遮断を想定しての行軍および寒冷地での行動に関する研究を兼ねての訓練中に起きた、日本の冬山登山史上最悪の遭難事件*1を元にした小説。
神成文吉大尉(小説では神田大尉)が率いる歩兵第5連隊第2大隊が見舞われた凄まじい悲劇が有名ですが、実は同じ時期に同じ師団に属する第31連隊の部隊(指揮官は福島泰蔵大尉。小説は徳島大尉)が迂回ルートを取って逆方向から山中に入り、一人の犠牲者も出さずに八甲田山中を走破し、無事訓練を成功させているのです。


両隊の成否を分けた、計画・準備・隊編成・案内人の有無といった違いはもとより、作品の中では指揮官同士の事前の交流や、連隊としての競争心も強調させて、うまく対比させていますね。第31連隊に遅れを取ったと思った神田大尉が出発前から平静さを失いつつあったり、第5連隊の遭難を知った徳島大尉の苦悩など、小説ならではの描写が見えます。
あれだけ準備万端整えた徳島大尉の部隊が、史上最悪とも言われる大寒波に途中まで散々苦労させられ、うって代わって神田大尉の部隊の苦難が始まる。八甲田山中にてまさしく死の彷徨となって壊滅した後、そこをどうやって第31連隊は乗り越えていくのか、展開も巧みで目が離せません。


この徳島隊の行軍にも半分くらいページを割いたことにかなり大きい意味を持つと思います。終盤、未曾有の遭難事故が発生したことによって厳冬期の装備等の見直しが一挙に進むだろうとの記述があります。ならば第31連隊による行軍成功はどう評価されたのか、失敗と成功の差はどこにあったのかを当時比較されたのか、上手くいった経験からでは人は学ぶことは難しいのか、いろいろ考えさせられます。


一つ注意しなければならないのは、これは実際に起こった遭難事件を元に書かれたフィクションであるということ。人物の名前が変えてあることに加え、小説オリジナルの設定(冒頭の会議のシーンなど)のほか、第5連隊遭難のデテールなども著者の創作であろうけれど、かなり事件の詳細に迫っているように感じるのですね。それだけ極限状態における描写が真に迫っているということも言えますが。
読後にでも遭難事件について、何でもいいから読んでみることをお薦めします。現代からすると既に1世紀を隔ててしまったのですが、この作品が発表されたのは昭和46年(1971年)。最後の生存者が他界してまだ1年とのことで、当時は実名で書くのが憚れたという事情もあるそうです。

*1:参加者210名中199名が死亡