朱川湊人 『無限のビィ』(上・下)

無限のビィ上 (徳間文庫)

無限のビィ上 (徳間文庫)

無限のビィ下 (徳間文庫)

無限のビィ下 (徳間文庫)

内容紹介

歴史的大惨事となった脱線衝突事故から10年。このところ不可解な事件が相次いでいた。女性がカラスに襲われ失明。白昼の凄惨な殺人。不思議な能力(念動力)を持つ小学生・信悟の優しかった女先生も突然豹変し、彼を執拗に付けまわすようになった。いったい何が起きているのか。背後には太古から地球にいた謎の生命体のたくらみが。信悟は圧倒的力を持つ生命体にいかに立ち向かうか。昭和の下町を舞台に描く、直木賞作家渾身のノスタルジックホラー。

舞台は昭和46年の東京の下町・三崎塚。
10年近く前に高架線上にて脱線した貨物列車に普通列車が衝突。乗客たちが線路を歩いて最寄り駅まで行こうとしたところでさらに別の列車が来て、人々を次々に撥ねたことにより百人以上の死者を出す大事故に発展したというのが背景としてあります。
そのモデルとなったのが国鉄戦後五大事故の一つと言われる三河島事故(1962年・昭和37年)であるのでしょう。


主人公は家が食堂「キッチンたちばな」を経営している立花信吾、小学3年生です。
彼には3つ離れた弟の将吾がいるのですが、頭の中が2歳で止まったまま。いわゆる知的障碍児でした。
しかし兄弟仲は非常に良く、いつも信吾は兄として精神的に幼い弟を近所の意地悪な小学生から守ってあげていました。
実は彼には秘密があり、精神を集中すると見えざる手で物を動かすテレキネシス能力を持っていました。
また、母の都子は結婚するまでは近所の医院に勤める看護婦であり、列車衝突事件の夜は昔の職場に手伝いに駆け付けて、次々と重傷者が担ぎ込まれる修羅場を経験しました。
彼女はその時、確実に死んだはずの少年がゆらりと動き出したのを目撃するという経験をしたのですが、幻覚だと思い込むようにしていました。
一方、三崎塚の臨時教師に赴くつもりであった菜美は帰り道のガード下で後を付いてきた少女に触れられた途端に身体を何者かに乗っ取られてしまい、代わりに少女は意識を失ったように倒れ込んでしまったのです。
菜美に乗り移った何者かはそのまま小学校に赴任して信吾のクラスの担任になります。
彼女はこの町で何かを探していたのでした。
菜美の婚約者であった孝治は彼女が突然音信を絶ったことを不審に思い、三崎塚の彼女のアパートを訪ねるのですが、人が変わったような態度で別れを告げられます。
そして、菜美が小学校に赴任してしばらくした頃から、三崎塚では教師が教頭を刺し殺す事件を皮切りに次々と血生臭い事件や事故が発生していくのでした。


その者はビー玉の由来を聞いて、気に入って自称した”ビィ”。
太古の昔から地球に住み、生きとし生ける様々な生物に寄生して、悠久の時を過ごしてきたのでした。
実体を持たないビィは”押す”だけで持ち主の魂を吹き飛ばして体を乗っ取ることができます。吹き飛ばされた魂はどこに行ってしまうのかは知らないし、別の個体に乗り移ると元の体は文字通り魂が抜けて意識がないような状態となってしまう。*1
おまけに手で触れるだけで味方にできるという能力まで持っていました。
一時的にカラスなどの中に入ることもありましたが、元が女性であるようで、女性の体に好んで寄生して暮らしていたようです。
ビィは寄生した人間の体を使って気まぐれに自身や他人を傷つけてみたり、性交させてみたりと、とんでもない行為を繰り返します。
長い歴史を見てきたビィにとって、地球上では高次元の存在であり、格下の生き物がどうなろうと罪悪感など湧きもしません。
まさに人間が動物や虫をいたぶって楽しむのと同じ感覚なんでしょうね。
ビィによる被害が続いて平和だった街が騒がしくなったきたことを人々は変に思っても、その理由にまで至ることなく。
ただ、菜美を諦めきれない孝治は三崎塚に来るたびに違和感を抱き、ビィの残した痕跡に関わってくることになります。


人ではない何者かが街に入り込んでいる、と真っ先に気づいたのが能力者(拝み屋)であるスザク。
身体の中に探し求めていた同族が眠っていると疑われてビィに狙われるようになった信吾。
しかし、ビィによる犯行は証拠が残らないので他人には信じさせることができない。
頼りとしていたスザクや時計屋の主人であるチクタクさんもビィにやられてしまい、信吾の孤独な戦いが始まります。
かろうじてスザクの弟であるリュウや同級生で片想いの相手である比奈子*2と力を合わせていくのですが…。


ノスタルジックホラーと銘打っているだけあって、人らしい感情を持っていながら人を人と思わない行為を繰り返すビィはまさに怪物のよう。
序盤から登場人物がむごい目に遭ったり、あっさり殺されるなど、小学生が主人公の割には無残なシーンが連続していきます。
人でない存在に気づく人はいても解決の目途は立たず、やや陰惨な雰囲気も漂うのですが、それでも惹き込まれていくのがさすがですね。
町の中で怪物が跋扈しているのに親を始めとして大人は信じてくれない。
信吾は悪の侵略者と対峙するヒーローものの当事者のような役割なのですが、現実では正義のヒーローは来てくれない。
ちょっとした力が使えたとしても、小学3年では荷が重すぎるだろうと思っていながら読んでいました。
後半に入り、ビィが種を撒いた差別による町同士の対立が佳境に入って、目が離せない状況の連続となります。
人は自分勝手で、簡単に他者を傷つける愚かな生き物、というビィの主張を裏付けるように些細な火種*3から大規模な争乱へと発展していくのを見ては、虚しく思えるのは確かです。人の歴史を紐解けば、確かに戦争の歴史であったのは事実ですから。
ただ、ビィ自身が求めていたエイは人には別の印象を抱いていました。
エイとビィが人間に対して別々の感性を持つに至ったのは、そのまま人間が合わせ持つ善性と悪性に近いような気がしますね。


ビィが振りまいた悲劇の顛末は詳しく書きませんが、信吾の周囲でもいろいろと明暗が分かれたことに深い感慨を抱きました。
本当の宿主については後半で少しずつ予想がついたものの、信吾のテレキネシスの種明かしはちょっとびっくり。時々現れる猫がいい伏線になっていたんですね。
菜美のことを諦めずに半死半生状態で意思が通じることができた孝治についてはハッピーエンドになったと信じたいです。
一方的な暴力に晒されたリュウについては、まったく運が悪くて可哀そうとしか言いようがありません。
必要に迫られて想いを告げることができた比奈子とは急速に距離が縮まったかに見えて、思いもよらぬ急展開。
かなり問題ある家庭事情が明かされました。
逆に言えば、だからこそ彼女には大人びた女の気配が感じられたのかもしれません。
だけど、聞かされたのが大人ならばともかく、小学生にはどうしようもないでしょう。
普通の子である信吾のためにあえて絶交した比奈子に強さと優しさを感じられました。
それだけに中学に進んだ彼女の足跡には、そうなってしまうのも仕方ないかと思いつつ、同時に非常に残念な想いを抱いたのも確かです。

*1:死にはせず生命活動は維持している

*2:彼女がリュウと会って早々に惹かれていくのを見て複雑な想いを抱いていたが、信吾のせいで狙われる可能性が出てきたのでやむなく打ち明けた

*3:ビィが焚きつけたのもあるが