10期・61冊目 『キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯』

キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯 (新潮文庫)

キスカ島 奇跡の撤退―木村昌福中将の生涯 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
昭和18年、壮絶な玉砕で知られるアッツ島の隣島キスカからの撤退は、完璧に成し遂げられた。陸海軍将兵5183名の全てを敵包囲下から救出したのだ。指揮を執ったのは、木村昌福海軍兵学校卒業時の席次はかなりの下位。だが、将たる器とユーモアをそなえ、厚く信頼された男だった。彼の生涯と米軍に「パーフェクトゲーム」と言わしめた撤退作戦を描く。

木村昌福提督については以前にもその海戦指揮について書かれた本を読みました。
『戦場の将器 木村昌福―連合艦隊・名指揮官の生涯』
『第二水雷戦隊突入す―礼号作戦最後の艦砲射撃』
タイトル通り礼号作戦が中心として書かれた後者はともかく、前者については「生涯」と銘打ってあっても実際は太平洋戦争全般のまとめに割いてあり、提督に関してはほぼキスカ島救出作戦に絞られていました。
それに対して本作はちゃんと父母や兄弟を含めた家族背景と出生に始まるその生涯を綴ってあり、静岡中学や海軍兵学校のエピソードも交えてその少年時代から知ることができます。
なお、海軍の出世において重要である卒業時の成績(ハンモックナンバー)は118人中107番であり、底辺といってもいいくらい。
そして水雷艇に始まる小型艦艇での艇・艦長経験がいわゆる水雷屋としての根幹が育まれたようです。
兵学校卒業後の教育は海軍水雷学校・砲術学校のみで一応同期と海軍大学校を受験するも失敗。別に頭が悪かったわけではなく、あまり受験勉強には熱心ではなかったのでしょう。
ちなみに真珠湾攻撃時の第一航空艦隊参謀長と知られる草鹿龍之介(最終階級は中将)とは同期で卒業後も交友があったというのはちょっと意外ですね。
若い頃から豪放磊落で人に慕われる、将器としての器は持ち合わせていたようです。


太平洋戦争開戦時は重巡鈴谷艦長(大佐)。ハンモックナンバーが低いと通常は大佐止まりと言われていましたが、艦隊勤務一筋の熟練の船乗りとしての一定の評価は得ていたようです。
黙々と勤務に精励する中で、部下をむやみやたらに叱ることもなく、常に沈着冷静な態度であり、また日本軍士官としては珍しい傾向として敵味方問わず人命を大事する姿勢からも将兵の尊敬を得ていました。
あくまでも現場の人であり、海軍首脳部による行き当たりばったりの用兵に振り回された感はあります。
その最たるものが「ダンピールの悲劇」として知られるビスマルク海海戦でしょう。
ラバウルからラエに向かう陸軍将兵を積んだ輸送隊の護衛を命ぜられた第三水雷戦隊の司令官でしたが、すでに輸送作戦そのものは上級司令部の参謀によって練られていて、事前の敵航空戦力の撃滅も不完全なまま、ただ実行するしかない状態。
そんな中で優勢なる敵の襲撃を受けて輸送船は全滅、駆逐艦も半減するほどの被害を受けて提督自身も銃撃によって重傷を負いました。そんな状況において士気が落ちるからと司令官負傷の旗を訂正させたというのですから、まさに将としての気概に感服せざるを得ません。


復帰後の1944年7月、第二水雷戦隊司令官としてキスカ島守備隊(約5200名)の救出作戦を指揮します。
既に隣のアッツ島が米軍の猛攻を受けて玉砕。日本軍の激しい抵抗を受けたために更に戦力を充実させて敵が待ち受ける中で何の考え無しに突っ込めば敗北は必至。
そんな中で時間のかかる守備隊救出を成功させるには霧という天然の障害を利用することと救出される側の陸軍の協力も必要不可欠でした。
わざわざ天気観測士官を招いて立てた一回目の作戦決行時、直前になって肝心の霧が晴れてしまったために直前で断念。「帰ろう、帰ればまた来られるから」との言葉は有名です。
いざその立場に立たない限りはっきりわかりませんが、作戦実施のプレッシャーは強かったはず。そこで冷静に状況を見て中止と判断したというのは相当勇気が要ることでしょう。
当然、帰還後は上級司令部からの批判が激しかったのですが、それを甘んじて受け入れ、なおかつ泰然と次の機会を伺っていたのですから大したものです。


そして2回目の作戦決行。深い霧のために米軍の偵察機は飛べず、しかも前日にいもしない敵に対して砲撃を行った関係で補給のために艦隊も付近海域から離れていたという。
まさしく運が味方したタイミングでした。ただ運が良かっただけではなく、普段は仲が悪い陸・海軍が事前に調整して協力したこと、スムーズに撤退するために歩兵銃*1を始めとした重量物を捨て最低限の装備に減らしたことが大きかったのです。
そこには木村提督を始めとして作戦を成功させるために多くの人々の貢献があったことを知りました。


その後は帝国海軍において組織的な水上戦最後の勝利と言われる礼号作戦(1944年12月)を指揮、内地に戻って海軍兵学校教頭兼防府分校長として終戦を迎えます。
11月に海軍大臣米内光政の推薦によって帝国海軍最後の中将昇進となりました。
予備役編入後も山口県にとどまり、廃棄されていた塩田から製塩事業を起こし、軍を離れた部下たちに職を与えようと尽力しました。人を大切にする姿勢は一貫していたようですね。
現在こそ優れた指揮官として名が知れている提督ですが、1957年に元海軍中佐で戦史家の千早正隆が本人に取材してキスカ島救出作戦の経緯を雑誌に発表するまでは家族でさえ知らなかったそうです。自分から功績を語る人柄ではなかったでしょう。
対照的な人物として非現実的な作戦を立てて将兵を見殺しにした挙句、戦後になってもひたすら自分に罪は無かったと言い訳し続けた牟田口連也が紹介されています。まぁその必要は無かったかもしれません。
軍にいた頃、そして戦後もしばらくその功績が正しく評価されることはなく、むしろ敵であるアメリカの方が評価していたというのが皮肉ですね。*2
ともかく、こうして丹念に書かれた作品によって提督の名が知られるようになれば喜ばしいことだと思います。

*1:天皇陛下から賜った武器ということで捨てるのはもってのほかというのが当時の常識だった

*2:同期である田中頼三も同じ