8期・2冊目 『25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり』

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり (光人社NF文庫)

25歳の艦長海戦記―駆逐艦「天津風」かく戦えり (光人社NF文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
戦争は遠い過去ではない―「敗軍の将兵を語らず」の戒めを守って五十余年、長い沈黙を破って、初めて自らの戦いを赤裸々に綴った回想記。圧倒的な米軍の制圧下、若き指揮官は死闘の海で、どう決断し、また乗員たちを統率して対処し、勝利をかち得たのか。船団護衛における苛酷な海戦の実相を伝える感動の戦記。

著者は海軍兵学校卒業後、しばらく駆逐艦乗務として北方警備隊に所属していた後に捷号作戦発動によって南方に移動。レイテ海戦にて別働隊として参加した後にシンガポールで修理中の駆逐艦天津風」の艦長として赴任します。
天津風」はその前の作戦で敵潜水艦の魚雷が当たり艦体切断・艦の幹部のほとんどが戦死という被害を受けており、仮艦首と機銃取り付けなどの応急修理を施しただけの状態。乗員も長いドッグ入りのために訓練・士気も落ちていたそうです。
そんな中で前艦長よりも16期も下の若干25歳の著者が直面した状況は非常に厳しいものであっただろうと想像できます。
しかし若くても実戦経験豊富な著者は、日本に向かう「ヒ88丁船団」への加入命令(護衛ではなく加入としたところに「天津風」の状況が窺い知れる)を受けて出港までのわずか一か月間で乗員を鍛え上げ、駆逐艦としての練度を向上させたところに士官としての非凡さが見られます。


そして出港した「ヒ88丁船団」は直後に輸送船が被雷するという幸先悪いスタート。
仏印までは潜水艦に不向きな浅海だったために被害は無かったものの、南シナ海に入った途端に潜水艦によって続々と輸送船が沈められ、あっという間に護衛対象が全滅。
更にフィリピンから飛来する爆撃機B25によって櫛の歯が欠けるように海防艦も沈んでいってしまいます。
日本の海上護衛がどれだけ貧弱で悲惨なものであったかは以前『海上護衛戦』を読んで知ることができました。
この戦記の舞台である昭和20年に入ってからは、さすがに輸送船に対して一定の数の護衛艦が当てられるようになってはいますが、それでも南方から無事日本に辿りつくのは稀で、輸送船どころか護衛の駆逐艦海防艦までも続々と被害に遭っていたと言われます。
具体的にその理由が書かれているのですが、戦局悪化によって制空権が握られていたことはもとより、本来潜水艦の天敵であるはずの駆逐艦の対潜能力が相当貧弱であったことが大きかったようです。*1
そもそも艦隊決戦思想に固執し、対空・対潜戦の戦術と装備がおざなりにされてきたつけによって最後の最後まで前線の兵士の命によって贖われたこと、なおかつ危険な水域であるのに勝算無しで船団を出して失敗し続けた軍上層部の責任は重いと言えます。


そんな状況の中で「天津風」は艦長の判断と乗員の一致協力、そしていくつかの僥倖によって何とか航海を続け、更に来襲したB25を3機迎撃撃墜という戦果さえあげます。
しかし最後に爆弾3発を受けて艦は大破し、苦労の末なんとか中国沿岸の厦門に辿りつくのです。
そのあたりの海戦の様子はさすがに経験した者だけが語る臨場感があって手に汗を握る展開でした。
そして艦の後始末を終えて一息ついたかと思いきや、著者は次に米軍上陸に備えて基地構築の隊長に任命されるのが「第二部 泗樵(ししょう)山部隊」。
飲み水の確保に苦労した話や、やたら蠅がわいて閉口した話、そして地元の海賊首領との折衝といった経験談が綴られます。
実際はそこで終戦を迎えて戦闘には至らなかったのですが、計画ではそこは水上特攻兵器・震洋*2の基地となっていたはずなので、本当に運よく命を長らえたと思いますね。
終戦後の武器引き渡しの際のエピソードについても、25歳という若さに反して部下を守るために思慮深さを見せました。
戦場という過酷な環境ではちょっと判断ミスが全滅を招くわけために、淡々とした記述ながらも部下を守るために指揮官としての苦悩した様子がよく伝わってくる内容でした。


その一方で、戦局全体の記述に関しては特記することはあまりないのですが、一点だけ言及させていただくと、戦争終盤に連合艦隊長官が陸上にあがったことに対して「海軍伝統」である指揮官先頭に反していると批判しているのだけは時代錯誤的で賛成できなかったですね。
実際に前線で長官の殉職事件*3が起こって混乱を招いた事に関してはいかが思われるのでしょうね。

*1:日本の駆逐艦は1対1では潜水艦に勝てなかったという

*2:モーターボートに爆薬をつけた程度の兵器

*3:山本五十六と古賀峯一。前者に関しては暗号を読まれていたのが直接の原因であるが