正義感というやっかいなもの

暴力や組織的犯罪に対する個人の正義感による告発などは、その勇気を称えたいものですが、安易に主義主張に使われる正義とか大義という言葉には、どうしても胡散臭さを感じてしまいます。
過去の歴史を振り返ってみても、正義とか大義の名のもとに始めた蛮行は数知れません。例えば中世の十字軍なんかも西欧のキリスト教世界にとって建前上は聖地を取り戻すための宗教的正義だったのだろうけど、イスラム側からすれば明らかな侵略でした。*1
それはそれで興味深いことなのですが、今日はネット上でよく見られる正義感が元になってこじれるトラブルとかそのあたりで書いてみたいと思います。


ネット上では不特定多数の人々に見られていることを忘れていて、安易に犯罪行為や誹謗中傷をブログに書き込みして炎上する例があります。
そのあたりは書き込んだ本人に非があるのは仕方がないことですが、正義感をもって批判するあまりに度を越してここぞとばかり対象者を攻め立てることがあります(そこは本人が悪いことと認識できずに開き直るなど原因もあるのでしょうが)。
しかし”祭り”と言われるこの状態に参加している人々のコメントなど見ていると、最初は不正を許さない感情で始まったのかもしれないけれど、中には野次馬根性とか日頃の鬱憤を晴らすような不純な動機も見え隠れしてそうなのです。制裁的言動がエスカレートして人格攻撃・差別に達している場合(しかも匿名の立場から)さえあります。
そういう”祭り”状態になってしまうと個人の力では対応しきれず結局は閉鎖してしまうのですね。そもそもの発端となった行為の反省を促すことができたかどうかもわからないうちに。


続いて、はてなでもよく見られる個人間のトラブルについて。
明らかに片方に非がある場合は別として、単に見解・認識の相違でしか無いのに、しつこく食い下がったり、公の場で晒して中傷したり、過去の履歴まで遡って延々と相手を攻撃する書き込みを続けてたりすると第3者の立場で見ていてもうんざりすることがあります。
これが何らかの精神的障害を抱えているとかではなく、むしろ普段はごく普通の良識的な人であることを知っていたりするとどちらかへの加担はしづらい。
ただ自分の考えと異なることを容認できず、相手が折れるまで押し付ける行為が問題なわけで。正義感が強すぎる人ほどがこうなりがちなのでは、と思うのです。正義が行過ぎると独善に陥ります。
清濁併せ呑むという言葉がありますが、どちらが正しいとか細かい違いに拘るよりも他者を広く受け入れられる器量を持ってほしいものですよ。


性別・年齢だけでなく生まれ育ったた環境や経験*2によって異なる人生を送ってきた他人同士ならば、考え方だって違いがあって当然ということが、顔の見えないネット上では認識しづらいからなのかもしれませんね。

*1:http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/283-arab_jujigun.htm

*2:場合によっては国籍・宗教(イデオロギー)も追加される