30冊目 『名君の碑』

名君の碑―保科正之の生涯 (文春文庫)
作者: 中村彰彦
出版社/メーカー: 文藝春秋
発売日: 2001/10
メディア: 文庫

保科正之とは・・・・・・2代将軍将軍徳川秀忠のご落胤ではあったが、正室の癇気を恐れたために将軍の血縁としての待遇を得られず、高遠藩保科家養子になり、家光の代の後半になってようやく幕政に参加。会津藩松平氏の始祖。
正之の遺訓により、会津藩は代々将軍への忠誠と尚武の藩風を幕末まで保ち続けることになる。

といったあたりが事前知識でした。名君であったらしいということは知っていても、どんな人生を歩み、どんな事績を残したかということまでは、この作品を知るまでは詳しく知ることはありませんでした。


なぜ現在、保科正之の名がさほど知れ渡っていないかと言うと、会津藩が幕末に官軍に最後の方まで抵抗した為*1、明治政府によって徹底的に封じ込められた影響が強いらしいです。
そういったわけで世に埋もれた保科正之の事績を広める意味もあって、この作品では母であるお静を中心に出生前後の秘められた事情から、信州高遠と出羽山形時代を経て会津藩としての基盤を築き、死に至る直前まで幕府と領民の為に貢献し続けた保科正之の人生を丹念に書かれています。
具体的な事績の羅列は特にここではしません*2が、幕府が序盤に武断政治によって基礎を固めたとすれば、四代家綱の時代に文治政治への転換によって幕府への不満を鎮め体制を安定させることができた点ので最大の功労者だということがよくわかります。


彼の政策は性善説に基づき、領民への慈愛に溢れていますが、何でもかんでも甘くするのではなく、その時代の事情と将来までを見通して考え抜かれたあたりは政治家としての非凡さを感じます。
更に家光の異母弟であることが明らかになって、媚を売ってくる輩が出てきても「足るを知る」のモットーに基づき、あくまでも将軍第一の姿勢を貫きます。
高貴な生まれをした者にありがちな奢りを持たずに成長できたのは、母方の一族や養育者の見性院*3、そして養い親となった保科正光など、周りの大人達が厳しくも暖かく見守られて過ごした少年時代の様子が前半によく描かれています。


特に構えることなく自然体で名君ぶりを発揮しつづけた保科正之にとって、人生を暗転させるような危機は何度か訪れます。
一つには相次ぐ家族の死*4であり、もう一つが晩年に患った白内障による視力の喪失です。
自分が特に何か悪いことをしたわけでもないのに、それだけの悲運が重なると、普通の人ならば悲嘆に暮れるあまりに仕事に身が入らなくなりそうですが、正之はその度に克服していくわけで、芯の強さというか不屈さを感じます。
もっとも幕政に集中する余りに、ほとんど帰ることができなかった会津の藩政については、高遠時代からの家老・保科正近や名家老と呼ばれた田中正玄(まさはる)の尽力も大きいですけどね。この名君にして名臣ありといった感じです。


読み終わって思ったのですが、ここまで幕臣としても藩主としてもほぼ完璧な人格者ぶりを見せられると、ひねくれ者の私としてはあえて粗探しをしてみたくなってしまうのです。
あえて言えば、朱子学への傾倒ぶり(作中では肯定的に書かれている)や将軍への忠誠を第一とする遺訓*5が、その当時は問題無いとしても、後々に影響を及ぼしたことでしょうか。
幕末に第9代藩主・松平容保京都守護職となったきっかけでもあり、後の会津藩の悲劇の遠因でもあります。
まぁ、約200年後の出来事についてまで責めるのはさすがに酷かと思います。というかこの件は主題とは外れますし、書くか書くまいか迷ったのですが、蛇足ながら長い目で見れば歴史の皮肉と言うしかないと思ったまでです。

*1:もちろん京都守護職時代の新撰組による粛清も大きいようです。

*2:参考=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B および、http://www21.ocn.ne.jp/~aizu/hosina.htm

*3:それぞれ北条に仕えていた一門と、武田信玄次女で穴山信君室、といった既に滅んだ一族のゆかりの人たちというのが興味深いです

*4:4人迎えた室のうち2人が数年で病死。子供11中8人が二十歳までに死亡。嫡男さえも20代の若さで病死と、時代を考えても家族的には恵まれなかった人です。

*5:第一条を要約すると、「大君・将軍(家)を第一に思い、忠誠をもって勤めること。他の藩の行いをまねて行動するのではなく、将軍家の為に行動せよ。もしこれが出来ず、他の考えを持つものは、我が子孫ではない。」