10期・34冊目 『羆嵐』

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)

内容紹介
北海道天塩山麓の開拓村を突然恐怖の渦に巻込んだ一頭の羆の出現! 日本獣害史上最大の惨事は大正4年12月に起った。冬眠の時期を逸した羆が、わずか2日間に6人の男女を殺害したのである。鮮血に染まる雪、羆を潜める闇、人骨を齧る不気味な音……。自然の猛威の前で、なす術のない人間たちと、ただ一人沈着に羆と対決する老練な猟師の姿を浮彫りにする、ドキュメンタリー長編。

大正4年、冬籠りに失敗した羆*1が食料を求めて開拓村に襲いかかり、村民7名死亡・3名重傷の被害者を出した日本獣害史上最悪の獣害事件、三毛別羆事件として知られています。
wikipedia:三毛別羆事件
実際に羆が襲いかかったのは三毛別の中でも更に奥地の山沿いに位置する六線沢という集落。
そこは東北から開拓民として移住してきた農民たちが最初の地で深刻な蝗害に遭って放棄、新天地を求めてやってきた土地でした。
何度かの冬を越して子供も生まれ、貧しいながらもようやく生活の根をおろせるようになったばかり。
そんな彼らのところに出現した羆。まさに気の毒としかいいようがありません。
最初は農作物の被害にとどまっていたのですが、ある日村の男性が帰宅すると子供の骸と血だらけの屋内。窓枠に抜けた髪が引っかかった様子から妻は連れ去られた様子。
かくして周辺の村々を恐怖のどん底に落とした獣害事件の幕開けでした。
翌日、捜索隊によって山中でもはや一部しか残っていない遺体を見つけて持ち帰ったのですが、このことで羆は人間に味を覚え、特に女性に執着するようになったこと、羆にとっての獲物を持ち去ったことに対する報復としてたびたび集落に来襲することになったのです。


ろくな武器を持たない集落の男たちでは対処しようもなく、三毛別の本村より警察官および猟銃を持った男たちが駆けつけます。
その人数の多さにたかが獣など駆逐も容易いだろうと思わせたのですが、実際に対峙してみてわかったのは、何人集まろうが変わらない人間の弱さでした。
普段使われず手入れのされていない銃は不発ばかりで撃てても当たらず。
武器が当てにならないと、獣に対する本能的な恐怖に振り回されるのが人間の性なのか、同士討ちまで発生する始末。
かくして人数ばかり揃えても羆の退治は成しえないと思い知った区長は独断で羆殺しの名人の異名を持つ男を雇うことにしたのでした。


凶暴化した穴持たずの羆が人間に襲いかかる内容と言えば以前読んだのが『シャトゥーン ヒグマの森』
本土の熊とはまったく違う羆の恐ろしさを描いているのは同じなのですが、不死身のモンスターと戦うヒロイン(何度もピンチに遭うが決して致命傷は負わない)というB級ホラー的な内容だったのに対して、やはり本作は現実にあった事件だけに話の盛り上がりや爽快感などは無くとも、重厚な内容であるのが違いましたね。
冒頭から北海道の過酷な自然の厳しさが伺えるのですが、それでも生活の糧を得るべく入っていくのが人間。
そんな自然から受ける洗礼の中でも最も酷いしっぺ返しを受けたものとしてこの事件は記憶されてきたのでしょう。
一人冷静に羆に立ち向かえた老人が退治成功後に見せた孤独と恐怖に対してできる限りの報酬で返した区長。
彼らのやり取りから真に羆に対峙した者同士の感情が凝縮されていることを感じました。

*1:マタギによるとその巨体ゆえに冬籠りの穴が見つからなかった「穴持たず」の可能性がある。飢えているために非常に凶暴