4期・76冊目 『日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条』

内容(「BOOK」データベースより)
ベストセラー『日本人とユダヤ人』で有名な評論家・山本七平は戦時中フィリピンで生死を彷徨い捕虜となった。戦後三十年、かつての敗因と同じ行動パターンが社会の隅々まで覆っていることを危惧した山本七平が、戦争体験を踏まえ冷徹な眼差しで書き綴った日本人への処方箋が本書である。現在、長期の不況に喘ぐ中、イラク自衛隊を派遣し、国際的緊張の中に放り込まれた日本は生き残れるのだろうか…?執筆三十年後にして初めて書籍化される、日本人論の決定版。

小松真一氏による『慮人日記』の敗因21か条を元に、日本がなぜ太平洋戦争に負けるべくして負けたのかを著者の体験も踏まえて書かれた評論。
この小松真一氏というのは、著者の山本七平氏と同様にフィリピンにて終戦を迎えて捕虜となり、収容所暮らしを経て日本に帰国したのは共通するのものの、山本氏が学徒出陣した砲兵少尉だったのに比べて、あくまでも技術者*1として赴いていた人(一括して軍属と称されるけど、実際は高等文官待遇)。それだけに、軍の身内としてではなく一民間人として戦争末期の占領地の様子や日本陸軍将兵を客観的に記してあるのが非常に興味深い。


歴史史料というのは、現地性(その場所で書かれたか)と同時性(その時代に書かれたか)という二つの基準で照らし合わせることができる。対象とその基準に近ければ近いほど史料としての価値が上がると言われる。
『慮人日記』は小松氏自身が当時見たこと感じたことを率直に書いたもので、戦後約30年金庫で眠っていたのを遺族の手によりそのまま書籍化されたという。
戦後書かれた多くの出版物は時代による人々の価値観の相違や、戦死者遺族への配慮、それに加えて本人の記憶違いも加わって、ある意味フィルターがかかってしまっている。
その意味ではあらゆる制約とは縁の無い『慮人日記』は、現代の我々が読みうるもっとも正確な読み物だと評しており、戦争記録に関して著者が強調する点は、戦争を知らない世代にとってはとても重要なことだと思う。


さて、敗因21ヵ条というのは、多少太平洋戦争を知っている人ならば当然のものが多いのだが、中には意外に思えるものがある。その筆頭が第二章で触れられている「一五、バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」ではないだろうか。
固有名詞がつけられた戦場として、ミッドウェイやマリアナやレイテではなく、なぜバシー海峡が挙げられたのか?
実はウィキペディアバシー海峡の項に簡単に概要が書かれている。

損害を省みず強行し続け「輸送実績を重視せず、輸送しようとしたという判断のみで評価するようになった」バシー海峡の輸送作戦にみるような組織的体質こそが根本的な敗因

wikipedia:バシー海峡


計画を立てただけで良しとし、実際にその輸送船がどのような状況にあったか、結果はどうなったのか知らんぷり。実際には潜水艦によってほとんど沈められて、乗船した兵士もろとも鉄の棺桶と化していた。奇跡的に辿りついたとしても、現地では武器も食料も無い。いったい戦力としてどれだけ戦況に寄与したか、というそもそもの目的について考慮されないので同じ過ちを繰り返す。
アウシュビッツは悪意によって構築された大量虐殺システムであったが、戦争後半におけるバシー海峡通過の輸送は無思慮によって起こされた大量虐殺という。共通するのは、身動きの取れないすし詰めの中でただ死を待つ人々。
アウシュビッツナチスドイツの犯罪行為として世に知られたが、バシー海峡のことももっと世に知られてもいいのではないだろうか。


思うに日本人は計画(予算)については細かいが、結果(実算)についてはあまり省みることはない。それと似たようなことで、日本軍における「員数と実数」の違いについて第三章で記されている。
実態はどうであろうと帳簿の数字が揃っていれば現実に存在することになっていて、それを元に遂行計画が練られるので現場からすれば無茶な作戦が押し通される。虚数と化した員数を実数として最後まで使い続け、戦闘という現実の前に消滅していく。
現在でもそれと似たようなことで、イベント等におけるいわゆる主催者発表と警察調べと二つの数字がある。たとえ実際に調べた人数が2,3万であっても主催者が10万と発表すれば、10万人を集めたことになってしまう。言葉においても本音と建前の使い分けと言われるが、これも建前を重視し過ぎるための弊害ではないだろうか。


また、太平洋戦争の影響についてよく言われるのが、日本国内だけでなくアジアの国民に惨禍をもたらせたということ。これについての反論として、結果的に日本が植民地にしていた西欧諸国と戦い一旦は駆逐したおかげで東南アジア諸国の独立に寄与したという。
そうなった面は否めないが、あくまでもそれぞれの国の努力の結果であって、日本が恩着せがましく言うことではないと思う。
なぜなら、第五章で触れられているように、異なる文化圏の人々を軽蔑し、あまりに日本人は独りよがりに過ぎたから。それは経済成長の過程で海外に進出した戦後であっても変わらないらしい。
無論、現地の人々を尊重し終始変わらない協力関係を築けた日本人は過去も現在もいる。しかし、それが一部の人間の美談として、普遍的になりえないのが悲しいところである。


本書によって、今まで気づかなかった点、深く考えさせられる点は多くあって紹介しきれないのだが、もう一点だけ挙げれば「第八章 反省」であろうか。ここでは小松氏の「敗因十 反省という言葉はあっても、反省力なきこと」が元になっている。
今まで太平洋戦争に至る道として、日露戦争やその後訪れた米国発の大不況による政治経済の混乱については少しは知っていたが、ここではなんと日本が初めて経験した近代戦争である西南の役に端を発した「反省なきこと」が露呈されているとしている。
太平洋戦争と西南の役に共通することとして、

マスコミ(と言っても当時は極めて小規模であるが)による、全国民への戦争への心理的参加の強制、更に虚報すなわち創作記事による「鬼畜西郷軍」による「官軍対賊軍」という概念の固定化等、あらゆる問題が内包されている

このことは、戦中の鬼畜米英、戦後の残虐な日本軍といったイメージ固定、レッテル貼りに繋がって、極端なまでに正義と悪に分ける傾向として興味深い。
逆に西郷軍からすると、軍事的な計算がまったくできてなく、

精神力的優位の盲信、大西郷の声望に依存していた。「西郷ひとたび立てば・・・」天下はしょう伏するであろうと。(中略)自分たちは武士であるから、官軍の百姓兵などはじめから問題外と考えていた。

そしてなんの根拠もなく大阪・東京を陥落させられるであろうと信じ、そのくせ補給に関しては無残なものだった。結果的に九州南部における激戦で敗退を重ねた後は坂道を転がるように衰退していき、早々に本拠地・鹿児島の急襲を許した。
総じて見れば、固有名詞を入れ替えれば太平洋戦争当時と言っていることやっていることは変わりないではないか。


西南の役だけでなく、その後の対外戦争である日清日露にしても内容はともかく勝利という形で受け止められたためか、真にまずかった点を反省することなく太平洋戦争への突き進んでしまった。
やはり日本人というのは、過去の教訓を生かしたり彼我の戦力を客観的に分析することが苦手なようで、一度希望的観測に支配されると冷静な声で覆すことが難しい集団的性質を持っているらしい。*2


「過去の過ちの反省」はよく言われる言葉だが、本当の意味での反省はまだ終わっていないように思える。それは戦争を悲惨なもの・忌むべきものと捉えて、それに通じるものを遠ざければ済むものではない。
いずれの項目も現代に通じる日本人論であり、本書を通じて日本人とはどういう傾向を取りやすいのか分析が可能であるように思える。
例えば、日本人は歴史を過去のものとして切り離す傾向があり、原因と結果を結びつけて省みることが苦手だと思うのだが、敗因一つ一つを見ても組織論や物のとらえ方としておおいに参考になる。
今尚繰り返される組織の悪弊を見るにいい加減その本質を見誤ることは避けねばならないのではないだろうか。

*1:当時台湾の工場で行っていたガソリン代用のブタノールをフィリピンで生産するため

*2:「空気」に反する者は無視されるか酷い時は排除されるのが今も変わらない