33冊目 『重耳(下)』

重耳(下) (講談社文庫)
作者: 宮城谷昌光
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 1996/09
メディア: 文庫

下巻では、重耳が意を決して白狄の地を出立することになったあたりから始まり、結果的に19年1万里と言われる流浪の旅が本格的に始まります。
途中、刺客に命を狙われたり、食料に困窮してあわや餓死寸前という事態もあれば、斉の恒公の厚遇により安息の生活を得て、太子の補佐役にと懇願されたりと、まさに波乱の時期を過ごしたわけです。


それにしても、重耳が晋に戻ると決心したのは、既に還暦を迎えた頃です。
会社員ならば定年退職。そうでなくともそろそろ引退を考える年齢というのに、本来の自分の位置に戻ろうという行動には、よほどの意思の強さを感じますよね。
でも『重耳』を読んでいて思うのは、彼は揺ぎ無い鉄の意志と行動力を持つ人というわけではありません。
むしろ厚遇されて新たな妻を迎えた斉の地に定住したいと思うような、ごく普通っぽい面もあります。


重耳の人生は、どちらかというと有能な側近達に支えられ、彼らをうまく活用することによって結果的にうまくいった印象が強いです。
祖国を追放同然の流浪の身分なのに「一国で宰相が務まる」ほどの能力の臣が回りに集まっていて、最後まで彼に付き従ったのはなぜか?
この人の為に尽くしたいと思わせるような人徳とか、何でも受けれられる器の大きさ、そういった重耳の人物的な魅力によるのかなと思いました。
もちろん若い頃から備えていたのに加えて、長年の放浪生活を経て大きく成長したわけで、まさに大器晩成と言ってふさわしい人物です。


長い放浪の末にようやく念願の晋の君主になりますが、その過程がまさに天・地・人の利が揃ったように自然に後押しされた流れでなされます。
まぁ、当然他国の思惑や謀略もあったのですが、結局は重耳が自然と身につけた徳が周りを味方に引き入れたって感じです。
君主でいた間は9年に過ぎないのですが、その間に周王室を援け、晋の覇権を大いに伸ばしたということで名君とされました。
それにしても、人間幾つになっても諦めなければ事を成すことは可能なんだということを教えられた気がします。
何だか、小説の感想というより重耳その人への賛辞ばかりになりましたね。


では、重耳以外に印象に残った人物はというと、弧突・弧偃父子は当然として、初めは目立たない卜占官だったが重耳の師となることでお互いに成長した郭偃(かくえん)。
更に重耳や側近の知らないところで勲功をあげていたものの、他人に知られることなく山奥に逼塞した後で、重耳らに知られ一躍有名になった介子推(かいしすい)ですね。
中国のこの時代の忠勤の考え方は日本のそれとはちょっと違う気がしますが、介子推が言葉も残さずに都を去る際に印象に残った記述をあったのでこの場に引用させていただきます。

自分の正しさを君主に認めさせるということは、君主に自身の不正を認めさせることになる。そうしておきながらその君主から去ることで、いっそう君主の非をあらわすことになる。
介子推は天の功という。重耳を君主にしたのは、人ではなく、天であるというのなら、介子推には功はない。全て天の命じるままに介子推は懸命に重耳を助けてきたにすぎない。
介子推に賞をさずけるのは、重耳ではなく天である。したがって重耳のもとにいては、天から恩賞がさずかるかどうかはわからない。


ところで以下は余談です。
日本史における天皇と同じように、中国史というと皇帝という存在が国家の礎というか中心のわけですが、言うまでも無く最初に皇帝を名乗ったのは秦の始皇帝です。
春秋時代以前は至高の位は王であり、諸侯は公でした。*1
重耳は死後に文という諡号を贈られたために文公と呼ばれますが、更に春秋時代の五覇公に数えられます。
なんでも諡号の中で「文」とされるのが最高で、次いで「武」らしいです。だから武公と呼ばれた祖父の称を超えて、重耳は晋の歴代のうちの最高の君主と称えられているわけです。

*1:勝手に王を名乗った楚という例外があったり、周王朝が滅んで戦国時代となると、諸侯が勝手に王を名乗るようになりますが