吉村昭 『アメリカ彦蔵』

アメリカ彦蔵 (新潮文庫)

アメリカ彦蔵 (新潮文庫)

  • 作者:昭, 吉村
  • 発売日: 2001/07/30
  • メディア: 文庫

内容紹介

嘉永三年、十三歳の彦太郎(のちの彦蔵)は船乗りとして初航海で破船漂流する。アメリカ船に救助された彦蔵らは、鎖国政策により帰国を阻まれ、やむなく渡米する。多くの米国人の知己を得た彦蔵は、洗礼を受け米国に帰化。そして遂に通訳として九年ぶりに故国に帰還し、日米外交の前線に立つ──。ひとりの船乗りの数奇な運命から、幕末期の日米二国を照らし出す歴史小説の金字塔。

戦国時代には日本から大陸や東南アジアまで船が行き来していましたが、江戸幕府による鎖国政策もあり、大型船の建造が中止されると、航海技術も停滞しました。
よって商船は国内の沿岸に沿って航行するのですが、いくつもの難所があって、荒天の際はいともあっさり太平洋を南もしくは東方向へと延々と漂流してしまっていたようです。
著者には漂流した挙句に無人島に上陸、苦労して生き延びたり、他国へと行きついた漂流者の作品がいくつかありますが、本作もその一つ。
時代は江戸時代も終盤に差し掛かった嘉永年間(将軍は13代家定)。欧米列強が中国大陸や日本沿岸へと押し寄せてきた時代です。

父を早くに亡くした彦太郎は母の再婚相手の家に引き取られるのですが、船頭である義父と水主となった義兄に憧れて、自分も船乗りになりたいと思うようになります。
しかし、母の反対もあって、いったんは商人になるために勉強するも、母が亡くなった13歳の時、義父に誘われて初航海に挑みます。
ただし、途中に寄った港で知り合いの船主に見込まれて乗り込む船を乗り換えます。それが運命の分かれ道だとは知らずに…。

彦太郎の乗り換えた栄力丸は江戸に向かう途中、紀伊半島の沖で時化に遭い難破してしまいます。
幸いなことに積み荷に米俵があったことから飢えることはなかったものの、破船状態(帆柱も舵もなく、流されるまま)で漂流すること約2か月。
南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助されたのでした。
そのままアメリカ西海岸の都市サンフランシスコまで辿り着いた一行。
思わぬ異国の地に戸惑いますが、アメリカ人の多くは親切であり、彦蔵(外国人が呼びやすいように彦太郎から改名)たちは現地で言葉を覚え、仕事をして暮らします。
当時、鯨漁の基地を求めていたアメリカは日本との通商のために東インド艦隊長官・ペリーによる使節を派遣することになっていました。
漂流民を送り届けることはそのきっかけ作りになるとして、彦蔵たちもいったん香港を経由して母国へと向かうことになります。
しかし、問題は幕府が鎖国を国是としていること。実際に香港で出会った日本人・力松より、イギリス船に乗って日本に向かうも大砲で打ち払われたと聞き(モリソン号事件)、すぐに帰国するのは無理だろうと諦めるのでした。

後世の我々からすれば、異国船打払令が出された天保年間とは事情が違い、外国の脅威を知った幕府の対応が変わっていったことを知っています。
しかし、当時の庶民からしたら、一度外国に出てしまえば大罪になるというのは常識。
お上に逆らったら大変だという長年の習慣が染みついています。
作中でも外国船に乗り込んできた役人を前にした漂流民が土下座して震えている様子が何度も描かれています。
それくらい重いことだったのでしょう。

はるばる香港まで一緒にやってきた栄力丸の乗組員(船頭は病死)はそこでバラバラになり、彦蔵を含む3名が再びアメリカへ行くことになり、長らく滞在することになるのです。
サンフランシスコに戻った彦蔵は税関長のサンダースに気に入られて、ほとんど養子待遇で教育を受けさせてもらいます。
本当の父のような愛情をもらったサンダース始め、船乗り、軍人、商人など多くのアメリカ人の恩を受けている様子がわかります。*1
もちろん、彦蔵自身が真面目でまっすぐな性格をしていたというのもあるでしょうけど、この頃のアメリカ人の面倒見の良さは特筆すべきですね。

日本が開国したことにより、彦蔵の帰国が可能となったのですが、先に洗礼を受けてキリシタンになっていたために帰化してアメリカ人として同行します。
アメリカ暮らしが長くなった彦蔵は会話だけでなく、英語の読み書きまで上達していたことや、仕事を通じてアメリカの商取引の知識も蓄えていたことで、アメリカ領事館で通訳として引っ張りだこになるほど活躍。
しかし、開国反対派による尊王攘夷がはびこるようになっていて、浪人たちの標的は外国人だけでなく、海外取引で儲ける商人や彦蔵のような通訳にまで及んでいました。
せっかく帰国が叶った上、学んだ英語を活かして仕事に励んでいたのに同じ日本人から命を狙われるとは、この頃の彦蔵が受けた恐怖や絶望は非常に強いものだったことが伝わってきます。
もっとも、後に長崎のグラバー商会で働くようになって伊藤博文らと親交を結んだのですが、かつては長州藩尊王攘夷を旗頭としていたことをどう思ったのかがちょっと気になりました。

ともかく、名実共にアメリカ人同様となった彦蔵は時代に翻弄され続けた人生であったことがわかります。
良いことも悪いこともありましたが、どちらかというとサンダースを始めとするアメリカ人の温情を受けたことが印象的でしたね。*2
尊王攘夷の激しかった頃はアメリカに戻ったりしましたが、それでも最後は日本に戻り、故郷にも訪れたりしています。
日本に生まれた以上は日本人としてのアイデンティティは捨てられなかったのでしょうか。
ただし、開国間もない時代の田舎の村人にはすっかり外国人と化した彦蔵を受け入れることができなかったのが悲劇的でありました。
大作であり、日本を巡る当時の国際事情を知るには良いのですが、彦蔵とは関係ない部分の記述も長かったのは確かでした。

*1:リンカーンを始めとして大統領と面会までしている。

*2:南北戦争が始まると国内が殺気立って雰囲気も変わる。

まいん『食い詰め傭兵の幻想奇譚12』

食い詰め傭兵の幻想奇譚12 (HJ NOVELS)

食い詰め傭兵の幻想奇譚12 (HJ NOVELS)

内容紹介

吸血鬼の神祖ふたたび…!?

ゆく先々に現れる謎の男マグナ。いい加減辟易してきたロレンたちは、対処するため先代の魔法王国について調べ始める。
その情報源として、エンシェントドラゴンを訪ねることになったが、その道中に懐かしい人物と合流し……。
これは、新米冒険者に転職した、凄腕の元傭兵の冒険譚である。

魔族の領域で出会って以来、黒い鎧の男・マグナはロレンたちがゆく先々で遭遇しては厄介事を押し付けられる天敵のような存在と化していました。
だったら、こちらから先手を打って、マグナが立ちまわりそうな古代遺跡を見つけて宝なり何なりいただいてしまえばいいという考えます。
とはいえ、今まで見つけた古代遺跡は偶然の産物であり、新たな遺跡がどこにあるかはわかりません。
そこで古代のことならば長命の者に聞くのが良いということで、当たりをつけたのがエンシェントドラゴン。
折よく火吹山に住まうというエンシェントドラゴンの動向を探る依頼があったのですが、その危険さゆえに受注資格は白銀級冒険者
そこで、かつて一緒に仕事をした白銀級パーティでエルフのニムが暫定リーダーとして加わることになったのです。
彼女は同じパーティのチャックと結婚するにあたり、贈り物のために金が必要らしいのでした。
火吹山に向かう道の途中で近くに神祖・ディアの住処があることを思い出したロレンは訪ねてみます。
伝説的な存在なのにロレンがいつもと変わらぬ気安い調子で話をしているのに驚くニム。
結局、ディアは暇だからという理由で付いてくることになります。
火吹山山麓の村は無人と化してしていて、異変があったことは明らかになのですが、死体の一つも見つからないのがおかしい。
さらに異様なオークの集団に襲われます。
ここでも何か異変が起きていることを察知したロレンたちは逃げたオークを住処まで追いかけていくのでした。


ロレン(中に”死の王”)、ラピス(魔族)、グーラ(邪神)に加えてディア(神祖)が加わった一行。
強すぎて、そのへんの魔物じゃ相手にならないレベルですね。
ラピスだけは正体を明かすわけにはいかないのですが、その分エルフであるニムの弓術が光っていました。
最後に待っていたのはボスに相当する敵ではなく、謎解きでなので地味なまま終わった感じでしたね。安定した面白さではありますが。
結婚披露宴もロレンたちではなくニムとチャックなので、「良かったね」で終わるほのぼのしたシーンでした。
あとはロレンがなぜキーワードとなる言葉を知っていたも含め、かつて所属していた傭兵団の団長に会いに行き、次巻でなんらかの秘密が明かされる展開が待っているわけですねー。

『血―吸血鬼にまつわる八つの物語』

内容(「BOOK」データベースより)

人間の生き血を吸わなければ生きてゆけない伝説の怪物―吸血鬼。数々の忌まわしい言い伝えに彩られ、人々を恐れおののかせてきた禍々しくも美しい怪異が、八人の創造者の手によって、今ここによみがえる。ブラム・ストーカーが『吸血鬼ドラキュラ』を世に問うて100年の時がすぎた20世紀末、血を吸う悪魔の恐怖は新たに形を変えて、ひ弱な人間たちにまたも襲いかかる。現代吸血鬼小説の最先端を収録した豪華アンソロジー

映画監督2人・小説家6人による、吸血鬼をテーマにしたアンソロジーです。
オーソドックスな西洋風の吸血鬼(ヴァンパイア)あり、妖怪じみた吸血蛭もあれば、人間に血を抜かれる話もあり。主人公が吸血鬼本人であったり、吸血された犠牲者(?)であったり、はたまた追う者であったりと内容もバラエティーに富んでいました。


「13」大原まり子
盲目の私を拾い育ててくれたお屋敷の中には13人目の異形の何かが存在していた。

「かけがいのない存在」菊地秀行
独特な機械工業文化が発達した世界にて、ある職人はガラクタ市場で精巧な人形を見つける。首元にある奇妙な穴の謎解きに夢中になるのだが、その人形を巡って謎の集団の襲撃を受ける。

「薔薇船」小池真理子
耽美派の風変わりな作家が遺した記念館を訪れた主人公。
遺作として展示されていたのは作品の体裁さえ成していないプロットであったが、それを読んだのをきっかけに古い記憶が呼び起こされる。

エステルハージ・ケラー」佐藤亜紀
19~20世紀のオーストリア。ある日突然吸血鬼になってしまった男の顛末。人外の化け物となってしまった男は家族からも恐れられるが、信仰心は失うことなく、司祭のもとで働くようになる。

「アッシュ―Ashes」佐藤嗣麻子
男は酒場で出会った女吸血鬼に惹かれてそのまま隠れ家に監禁・飼われる生活を送るが、ある日突然解放される。男は彼女のことが忘れられず、何年もかけて探し求めてしまう。

「一番抵当権」篠田節子
ライターとして成功した男は長年支えてくれた妻を捨てて、若く美しい女を娶る。
しかし、金にルーズな彼は支えがなくなるとたちまち困窮して借金地獄に陥ってしまう。困り果てた末に捨てた元妻を頼ることになって、病院に匿われて試薬検体のアルバイトをすることになるが…。

「スティンガー」手塚眞
夜の公園に出没する美しい女性ヴァンパイアに魅せられてしまったホームレスの少年。ヴァンパイア・ハンターの大男は少年にヴァンパイアの住処へと案内させようとする。

「血吸い女房」夢枕獏
安倍晴明シリーズより。さる貴族の女房*1が就寝後に不審な症状を訴える謎に晴明と博雅のコンビが迫る。


半分以上がヨーロッパもしくは異世界を舞台にしてあり、独特の世界観が味わえて良いとは思います。
でも個人的には現代を舞台にした「薔薇船」と「一番抵当権」が非常に印象に残りましたね。前者は血を吸う行為からのエロティシズム、後者は因果応報としてのホラーなオチが秀逸でした。

*1:ここでは高位貴族の屋敷に勤める女官や侍女の意味

横山信義 『蒼洋の城塞4-ソロモンの堅陣』

蒼洋の城塞4-ソロモンの堅陣 (C★NOVELS)

蒼洋の城塞4-ソロモンの堅陣 (C★NOVELS)

内容(「BOOK」データベースより)

戦艦『大和』をもって英国最新鋭戦艦を撃破したものの、日本にはニューギニアを制圧し豪州を屈服せしめるまでの力はなかった。戦場での勝利を積み重ねて敵の継戦意思を折るという戦略に限界を感じた山本五十六は、講和に至る別の方策を探るべく、司令長官を辞して連合艦隊を去る。同時に、開戦以来攻勢を続けてきた連合艦隊は守勢に転じ、長期持久も視野に入れた艦隊編成と人事の刷新を行う。一方、米国は新兵器を装備した艦隊を珊瑚海に送り込んで来た。迎え撃つ新体制連合艦隊に勝算はあるのか―

ポートモレスビーからいったん引いて、ラエにて防御態勢を整えた日本軍。
米軍はオーストラリア北東岸に加えてガダルカナル島でも基地を建設して二方向から航空攻勢をかけてきます。
補給線が短くなったことに加えて潜水艦対策を行ったこと、陸軍航空隊にも協力を願ったこと。それに対して攻める米軍としては距離の関係で充分な護衛が付けられず、思ったような効果は出ないわりには大きい損害が出てしまう様子が描かれます。
しかし、時は1943年に入ったところで、史実でも連合軍有利へと傾いていく時期です。
太平洋戦線でその役割を担ったのは当時の正規空母としては最高の性能を誇ったエセックス級。そして零戦に対して劣勢であったF4Fの後継機として登場したF6Fヘルキャット
一時は稼働空母が一隻だけに落ちこんだものの、本気を出したアメリカの工業力は続々と新艦船を送り込んできます。
いくら日本側の空母群が健在であっても初期のような大勝は難しくなっていきます。

そして生起したのがラエに攻勢をかけてきた米軍とそれを阻止する日本軍との空母部隊同士の戦いでした。
戦闘機と空母が更新されて戦力的に充実したことで敵を舐めていたのか。
史実のミッドウェーを逆にして再現したかのようなミスで攻め切ることができなかった米軍が戦略的に敗北しました。
これも史実では海軍における勝利の立役者であったハルゼーとスプルーアンスが作中では二人とも戦死していることが関係しているのでしょうかね。
沈没したのは軽空母のみ、正規空母はどちらも中破程度という痛み分けで終わったかに見えたところで日本軍は飛龍と龍驤が潜水艦による雷撃で沈没。先に潜水艦を狩っていた水上機の基地が壊滅したために入り込まれていたようです。
もっともアメリカ軍も追跡してきた第八艦隊と夜間の水上砲雷戦、および潜水艦によって、傷ついていたエセックス級2隻が沈みました。
エセックス級が航空戦で沈没しなかったのは、幾度も傷つきながら生き延びて、一隻も沈むことがなかったという史実を反映したのですかね。
これから零戦の後継機が登場予定で、空母も大鳳陸奥(改装)、信濃が就航予定ですが、当然米軍の方がペースが上回っているので苦しくなりそう。
艦船乗組員の被害は米軍の方が多いですが、これからパイロットの消耗は日本の方が増してくるでしょうからね。

一方、ヨーロッパ戦線では史実よりも頑張っていた枢軸軍ですが、連合軍の本格的な反撃によって押し戻されていく様子が描かれました。
北アフリカ戦線は消滅。東方ではスターリングラードから撤退。今後ノルマンディー上陸に相当する作戦も実施されるのではないでしょうか。
ヒトラーにとって起死回生たるV2ロケットもどれくらい効果あるのか?
日本軍としても、今まで大敗はしませんでしたが、沈めた分の倍以上を揃えて来襲してくる米軍にどう対処して、戦争の落としどころを決められるかが次巻以降の見どころでしょうね。

沢木まひろ 『二十歳の君がいた世界』

二十歳の君がいた世界 (宝島社文庫)

二十歳の君がいた世界 (宝島社文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

夫を病気で亡くした五十歳の専業主婦・清海は、満月の夜に遭遇した転落事故によって突然、三十年前のバブルに沸く一九八六年の渋谷にタイムスリップしてしまった。そこは清海のいた世界とよく似た別の渋谷。清海はそこで、失踪した叔父や、若き夫、さらには二十歳の自分と出会う。ある殺人事件の謎を解くことで、清海は元の世界に戻ろうとするが、思いもよらない真相が明らかになり…。

本作が珍しいなと思ったのは、50歳の女性が意識だけ若い頃に戻る(いわゆるタイムリープともいう)ではなく、その状態のままでタイムスリップしてしまったという展開です。
満月の夜、突然、頭上からの落下物によって気を失った清海は元いた代々木公園にいること、財布や携帯電話を含めて荷物の一切合切を失ったことに気づきます。
仕方なく、自宅までの交通費を借りようと渋谷駅近くの交番まで歩くのですが、そこで自分は30年の時を遡って1986年にいることを悟ったのでした。
眉の形から髪型、ファッションまで。30年の差は大きくて、まるで異邦人のようにジロジロ見られるのも仕方ないかもしれませんね。
ともかく、一文無しとなった清海は自宅に帰るために交番で千円(旧札)を借りることができたものの、様変わりした渋谷の風景に興味をそそられて街を見学しに行きます。
そこで目にしたのは、21世紀ではカフェ・チェーンに押されて姿を消していった、ごく普通の喫茶店。その店内には若き叔父の姿が。
出生の関係もあって親との折り合いが悪かった清海にとって、何かと相談相手になったり、頼れる存在であった叔父は失踪して行方不明となっていたのです。
清海の知る歴史とは違っているものの、懐かしさを感じて誘われるように中に入ってしまうのでした。
作中で清海は叔父にタイムスリップしてきたことを正直に話し、本人でしか答えられない秘密を明かしたことでなんとか信じてもらえます。
そのまま、叔父の大学時代の同級生*1になりすまし、喫茶店での住み込みの仕事をすることになります。次の満月の夜に帰還できることを期待して。
茶店で働いているうちにやってくるのは客ばかりでなく、当時20歳であった清海もいて、あまりの自由っぷりに呆れたり。
さらにアルバイトとして雇った大学生が亡き夫であることがわかり、清海は心穏やかではいられなくなってしまうのでした。


過去に戻れるならば戻りたい。
そう願う人は多いんじゃないでしょうか。
しかし、それは最初からわかっていればの話であり、前触れもなく所持品無し・一文無しでタイムスリップしてしまったら、誰もが途方に暮れるものですよね。
しかも、過去の自分に戻れるならいいけど、現在の年齢のままでは本名を言っても信用してもらえません。健康保険も使えない身元不明者のまま。
その点、清海は早々に叔父を見つけることができただけでなく、叔父に信用してもらえてラッキーでした。もっとも、叔父にも深い事情があって、それが清海のとってずっと知りたかった謎の解明に繋がるのですが。
それはともかく、30年という時代の違いは大きいものです。
ほとんど渋谷の喫茶店から離れないので限定的ではあったものの、バブルに浮かれた時代の情景が伺えて、懐かしさを覚えましたね。
なお、50歳の清海が20歳の自分自身の言動を見て、恥ずかしがるところに非常に共感しました。
若い頃の自分を客観的に見たら、きっと同じように思うのだろうなぁと。
また、過去といってもまったく同じではなく、微妙にずれがあって、パラレルワールドの扱いとなっています。*2
そこに50歳の清海が入って、まだ20歳であった夫や清海、まだ年下の母や叔父と接することによって彼らの未来が変わってゆくのが醍醐味といえましょう。
まぁ、読んでいて先の予想がつくストーリーではありますね。劇的な展開はないけど、最後まで安定して読めた作品でした。

*1:実際は清海の方が年上なので、浪人していたことにした。

*2:同じ時間に同一人物の存在が許されているのもそのためか。

安部竜太郎 『薩摩燃ゆ』

薩摩燃ゆ〔小学館文庫〕

薩摩燃ゆ〔小学館文庫〕

内容紹介

長年続いた政権体制がマンネリ化し社会不安も増大していた江戸後期、後に明治維新の中心となる薩摩藩では破綻寸前の財政を改革すべく、調所笑左右衛門広郷が悪戦苦闘していた。53歳という、現在でいえば定年間近の官僚が、出世や保身ではなく、文字通り命を賭けて「国」を立て直すため御法度にも手を染め、その責を負って悲劇的な最期を遂げる。彼の働きがあってこそ、薩摩藩は維新のリーダーとなることができたのである。

江戸幕府の財政が一気に傾いたのが11代家斉の頃だと思うのですが、借金に苦しんでいたのは幕末に外様の雄に数えられる薩摩藩も同じで、当時500万両という途方もない借金を抱えていました。
これがどれほど大きいかというと、年収12万から14万のところに年利息が80万かかっているわけで、とっくに破産しても仕方ない状態です。
冒頭からどの商人にも相手をされずに途方に暮れる調所笑左右衛門広郷の姿が哀愁を帯びていますね。
前藩主・島津重豪より、藩財政を赤字から黒字に転換することを指示された広郷。
無茶ぶりともいえる使命ですが、茶坊主から引き立ててくれた恩義、それに薩摩人特有の固い忠孝の志によって奔走する様が描かれます。
商品作物の開発、奄美諸島の黒砂糖を砂糖問屋を排除して専売制とする。
このあたりはまだしも、琉球を通じた清との密貿易に幕府の改鋳と同じタイミングで贋金作り。明るみに出れば首が飛ぶ事業にも手を染めていきます。
無知な島民からは徹底的に搾り取り、秘密を守るためには平気で人を始末する。
読んでいて辛いのは、それらは自身の懐を肥やすのではなく、藩への忠義の結果として励んでいるところ。
藩主・斉興の命によって藩内の一向一揆を弾圧*1するのですが、彼自身の妻を始めとして信者の数は多いため、地元において批判の声が高まり、かなり立場が悪くなってしまいます。
さらに広郷自身は重豪が目をかけていた斉彬を支持するも、現藩主・斉興のために金策に奔走せざるを得ない状況。なおかつ斉興の指示によって子を二人変死させられていた可能性さえあったとしています。*2
史実的にお家騒動で斉彬ではなく久光派と目されていたようですが、彼の内心はどうであったのか。
小説の中ではさして図太い神経を持ってなく、斉興を恨みつつ、年を取るごとに思うように動かなくなる身体に鞭打ち、藩命(亡き重豪の遺命)のために粉骨砕身する老武士といった印象を持ちました。

後世から見れば、薩摩藩がずば抜けた経済力・軍事力を持ちえたのは広郷の改革があってからこそ。
しかし、後に斉彬派の西郷隆盛大久保利通明治維新の立て役者となり、主君筋の久光を批判できない代わりに広郷が一人悪評を被ったようです。
戦後になってからようやく再評価されるようになったのですが、彼の子孫はたいそう苦労したのだろうなと思わされました。

*1:寺に納められる金を奪う目的もあった。

*2:定説の通りに彼が斉興・久光派であるのならば、斉興が黒幕ではなく、斉彬派の若手藩士が暴走した仕業の方が自然に思える。

吉村昭 『深海の使者』

新装版 深海の使者 (文春文庫)

新装版 深海の使者 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

太平洋戦争が勃発して間もない昭和17年4月22日未明、一隻の大型潜水艦がひそかにマレー半島のペナンを出港した。3万キロも彼方のドイツをめざして…。
大戦中、杜絶した日独両国を結ぶ連絡路を求めて、連合国の封鎖下にあった大西洋に、数次にわたって潜入した日本潜水艦の決死の苦闘を描いた力作長篇。
昭和17年秋、新聞に大本営発表として一隻の日本潜水艦が訪独したという記事が掲載された。当時中学生であった著者は、それを読み、苛酷な戦局の中、遥かドイツにどのようにして赴くことができたか、夢物語のように感じたという。
時を経て、記事の裏面にひそむ史実を調査することを思い立った著者は、その潜水艦の行動を追うが……戦史にあらわれることのなかった新たなる史実に迫る。

第二次世界大戦では隣国同士のイギリスとフランス、大西洋を隔てたアメリカ、北海や中東もしくは太平洋を通じてソ連、と連合国側は緊密な連携を取れていました。
しかし、枢軸国側となると同じヨーロッパのドイツ・イタリアその他東欧諸国はともかく、極東に位置する日本は孤立していているのが問題でした。
ドイツがソ連と戦端を開く前ならば鉄道や航空機でユーラシア大陸を横断しましたが、対ソ戦が始まると、海路を利用せざるを得なくなります。
すなわち東シナ海からマラッカ海峡を通り、インド洋を横断。マダガスカルの南方からアフリカ大陸最南端を通り、大西洋を一気に北上するという長大なルートです。*1
途中の多くの拠点は連合軍によって押さえられているため、補給や安全性という面でも困難でした。
そうなると、選択肢は潜水艦による往還となるわけです。*2
日本が南方作戦で東南アジア一帯を押さえ、ドイツ軍がフランスを屈服させたために互いの潜水艦基地があるペナンからロリアン間となりましたが、それでもほとんどは連合国が制空権・制海権を握っている海域を渡っていかざるを得ないのでした。


本書はまだ存命であった関係者への聞き取りと豊富な資料を元に史実を淡々と綴った内容です。
約5か月間におよぶ長い航海のうち、半分を占める大西洋の航海は苦難の連続だったようです。
現代とは違い、当時の潜水艦というのは潜水が可能な艦というだけで、水上航行が基本でした。
それゆえに敵哨戒機・艦船を発見、もしくは発見された場合は何時間も潜行してやり過ごすわけで、いつ機雷によって穴が開き沈没するかもしれないという恐怖や時間が経つにつれて艦内の酸素が減って乗員は苦しみつつも耐えるだけという想像を絶する苦心惨憺な様子が伝わってきました。
それだけに無事ドイツに辿り着いた時の歓喜が相当なものだったのでしょうね。
ドイツに到着した日本の潜水艦乗務員への歓迎ぶりが想像以上でしたが、それだけ当時は同盟国間の連絡が困難だったからでしょう。
結局、戦時中に日本から送られただけでも5回。ドイツ側からのUボートの派遣(譲渡)が2回。
完全に帰還できたのがそれぞれ1回だけ。時期が経つにつれて戦局が悪化して、成功の見込みが薄れていくのがよくわかります。
運が良ければ助かる見込みがある水上艦と違い、潜水艦というのは水中でダメージを喰らったら沈むのみで生還は絶望的。
乗員や同乗者はもとより、当時の日本が渇望してやまなかったレーダーやジェット機に関する技術的資料や機材までもが失われたのは惜しかったと思われました。


ちなみに潜水艦以外に長距離飛行を可能とした航空機による連絡もされたことも記載されていますね。
実際にイタリア機は中国北部にある基地まで無着陸で到達さえしています。
しかしそのルートはソ連領内を横切ることになり、太平洋戦争遂行中の日本(東条首相)はソ連を刺激することをひどく恐れていたため、飛行ルートは大きく南方へ迂回するしかありません。
搭載量は限られているとしても、5か月かかって往復している間に戦局が変わってしまう潜水艦より、50時間超と短く済むために航空機による連絡にも期待がかけられ、一度、日本から試みられました。
しかし、これもインド洋の途中で消息を絶ってしまい、継続されることはなかったようです。

*1:スエズ運河はイギリスが押さえているために地中海には出れない。

*2:ドイツは商船を武装させた仮想巡洋艦を就航させていた