12期・1冊目 『三陸海岸大津波』

三陸海岸大津波 (文春文庫)

三陸海岸大津波 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

明治29年昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。大津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか―前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに再現した震撼の書。

私は海無し県(埼玉県)の出身で、子供の頃から海に対しては憧憬のようなものしか抱いていませんでした。
海が及ぼす災害についても頭では知っていても実感することが無かったのですが、それが覆ったのが2011年3月11日に発生した東日本大震災
テレビやネット上の動画・画像、実際に遭遇した被災者の体験談により、津波の恐ろしさを存分に知らされました。
それは福島の原発が被害にあったことにより、関東内陸部においても長らく停電・節電や食料事情などに影響を及ぼしたのは周知の通りです。
その被害の大きさに、未曽有の大災害であると認知されたのですが、実は過去においても三陸海岸には死者多数にのぼる大津波は何度もあったことは何となく知っていました。
本作で主に取り上げているのは明治29年昭和8年の海底地震による大津波。そして以外にも南米チリ地震によって発生した津波がはるばる太平洋を越えて影響を及ぼしたことも記載しています。
当時生存していた80代の体験者を始めとして、さまざまな証言記録、中には昭和8年時に残された文集を紹介して、生々しく綴られた内容となります。


もともと三陸海岸に住む人々は背後から迫る山地のために狭い陸地よりも海を糧として生きる人々でした。
上から見下ろすと、いみじくも海外沿いにへばりついて村々ができあがっているというのがわかります。
それに海も深いためにいったん津波が発生すると、その勢いは弱まることなくダイレクトに海岸へと襲いかかる。
山のように盛り上がった大波が海沿いにあった家々が瞬く間に飲み込んでゆく様が目に浮かぶよう。
まして、二度とも夜間であったのと、地震でいったん起きた人がいったん就寝してしまった後であったために、犠牲者の多くは気づかない内に海水に飲みこまれていたようです。
さらに被害を多くしたのが厳冬期であったために家着のまま逃げ延びた人が凍死の憂き目にあったことも不幸でした。
明治29年津波では、沖に出ていた漁師を除いて、ほとんどの住民が命を落とした村がいくつもあったというから、その被害のすさまじさがわかります。
さらに高台にあった家までも津波は押し寄せたと言われます。
昭和8年の記録ではだいたい十数メートルとされていますが、著者によれば津波の高さというのは地形や条件によって変わるらしく、その正確な統計はずいぶんと難しいようです。
川を逆流してかなり内陸まで爪痕を残したことからもうかがえます。


明治29年昭和8年にしても、災害発生当初から県と国をあげての救援体制が動いた様子でしたが、当時は道路が未発達でむしろ集落間は船の方が行き来がしやすかった「陸の孤島」と呼ばれていたために現地に入るのにも苦労したとか。
そのために復旧にも苦労して、現地では食料衣料が不足、窃盗が瀕発するなど治安が乱れたといいます。
その点は2011年においても同じような問題を聞きましたから、どれだけインフラが発達しても、被災地ではすべての被災者に支援を行き届けるのはなかなか難しいことなのでしょう。
最後に明治から昭和にかけて何度も大津波を経験して生き延びた87歳の老人の言葉が大きく印象に残りました。

津波は、時世が変わってもなくならない。必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」


しかし東日本大震災では多数被害者(日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者の合計が1万人を超えたのは戦後初めて)を出しました。*1
「想定外の災害だった」という言葉を聞きましたが、三陸海岸では過去に大規模な津波によって多数の被害が出ていたことは歴史的事実であったはず。
ただ、始めは高台に移り住んでいた人々も、生活の利便性のためにやがて海岸沿いに戻ってしまうという。
災害の記憶は薄れていくと言いますが、こうして記録が残っている以上は万が一に備えることは必要です。大災害は忘れた頃にやってくると言いますから。

*1:死者は15,894人。その内、岩手・宮城の3県だけで14,214人。なお、明治29年時の死者は21,915人