6期・19冊目 『蒙古襲来―歴史よもやま話』

内容(「BOOK」データベースより)
なぜ元の大軍勢は破れ去ったのか。つぶさにたどる元軍敗走の真因。玄界灘の北西季節風―軍船の構造と建造日程―。緻密な実証と大胆な推論で海の作家が「蒙古襲来」を読み直す異色の歴史エッセイ。

中世日本にとっては対外上の一大事件である元寇。当時圧倒的軍事力を誇った元帝国の侵攻を鎌倉幕府のもとに集まった御家人たちの懸命な防衛と九州を襲った台風によって辛くも斥けたということと把握しています。*1
ただそれによって今までご恩と奉公によって結ばれていた幕府と御家人の関係が揺るぎ始め、思想的には「神風」として長く受け継がれてしまったことが挙げられます。
その元寇に至るまでのモンゴル帝国の成立*2と膨張、そして日本においては土地制度の変遷から武士の発生と武家政権の成立。両勢力について順を追って丁寧に説明されているので理解しやすい内容となっていますね。


古代のアレクサンダー大王ローマ帝国などを凌ぐ、世界史上最大の大帝国を作り上げたモンゴル騎馬民族の強さの秘密から始まるのですが、いったん勢力としてまとまると、今度は他国からの強奪を始めとするあくなき領土拡張が宿命づけられていることが解説されています。
しかしながらモンゴルの強さの秘密は軍事力だけにあらず。民族宗教問わず人材・制度・技術など他国の優れた部分を積極的に取り入れて強国として充実していったことにあります。
それにしても、いくら騎馬による機動性が持ち味とは言え、広いユーラシア大陸を東西に縦横無尽。欧州・中東まで攻め込んでいったのは凄まじいものがありますね(逆に言うと騎馬の強みが発揮できない島国日本と東南アジアでは苦戦している)。バトゥ率いる欧州遠征軍はポーランドで東欧の騎士団連合軍を一蹴したところで二代目カーンのチャガタイの死により引き返していますが、もしそれが無ければ西欧まで攻め入ったであろうことは想像に難くありません。
その軍勢は降伏するものには寛容だが、抵抗するものには必要以上に残忍だったことが記録されているのですが、中には実人口以上に死者の数が水増しされているものもあったりと、実情を超えてその恐怖が記憶されていたと述べているのには納得。


一方日本では、開拓農民とも言える武士が荘園領主にいいように利用されるをよしとせず、実権を握り公的機関としての幕府を作り上げました。しかし源氏嫡流が絶えた後は有力御家人の合議制の名の元に激しい内部闘争が繰り広げられたことが記されています。確かに年表で見ても鎌倉幕府成立後も血なまぐさい事件内乱がずっと続きますよね。
まぁそういった経緯があって国難を前に北条得宗家による独裁が確立したのはちょうど良かったというか、歴史のタイミングの不思議さを感じます。
しかし幾度と無くやってきた元の使節を拒絶、しまいには斬ってしまうとはいくらなんでも乱暴です。そのくせ文永の役が始まるまではこれといった対策は練らず(敵国降伏の祈祷はしていたけど)、戦時における外交下手と情報不足はいつの時代も変わらないのかと。
肝心の戦役について経緯が詳細に記述されているのですが、印象としては文永の役では日本側の対応に不備があって終始押されていたものの、本格的な侵攻では無かったこと*3や軍船の欠陥によって大したことなく終わったのではないか。一転して大兵力によって攻め寄せた弘安の役では防衛準備を整えていた日本側の健闘もありましたが、史上稀に見る大型台風によって主力船団が壊滅したことが大きかったようです。神風云々より、たまたま急ごしらえの軍船で外洋を越えての交戦能力を充分備えていなかったということじゃないですかね。


さて、二度の日本侵攻が失敗したとしてもその中身の大半は高麗・南宋の兵力であったので、経済的にはともかく軍事的には大したダメージではなかったというのが実情であったようですが、別のところで元帝国は揺れていました。
初代チンギス・ハーン亡き後、絶えず後継者争いと内乱に悩まされていて、3度目の元寇が行われなかったことの一つにも東方諸王家の叛乱始末に追われていたことが挙げられます。もし叛乱が無かったか早めに鎮圧されていたら、日本侵攻に固執していたクビライ・カーンのこと、3度目の更なる大掛かりな侵攻があったのかもしれません。モンゴル帝国の膨張によって世界の諸国は大きな影響を受けましたが、もしかしたら中世日本の姿も今とは大いに変わっていたかもしれないですね。

*1:他にも渡海しての攻略作戦に関する様々な不備があったこともあるらしい

*2:匈奴から始まる大陸北方騎馬民族集団の起源にも触れられている

*3:侵攻前に威力偵察を行うのがモンゴルの常套手段