吉村昭 『赤い人』

新装版 赤い人 (講談社文庫)

新装版 赤い人 (講談社文庫)

赤い囚衣の男たちが石狩川上流に押送されたのは明治14年のことだった。国策に沿ってかれらに課せられた死の重労働。鉄丸・鎖につながれた囚徒たちの労役で原野が切り開かれていく。北海道開拓史の暗部に横たわる集治監の歴史。死を賭して脱走を試みる囚人たちと看守たちの、敵意にみちた命がけのドラマ。

明治時代の北海道開拓においては、戊辰戦争で敗北した東北諸藩から移住してきた人々もいましたが、政府の財政基盤が弱いことで初期の開発はなかなか進まない状況でした。
一方、明治維新後に士族の乱が相次いだことから、各地の監獄はパンク状態。管理が行き届かず、脱走が相次いでいたようです。
そこで囚人を北海道に送って開発に従事させることにより、治安の面でもコストの面でも一石二鳥になると見込まれました。
明治14年、当地に監獄を建設がてら、開拓事業を行わせることが決まったのでした。
当時の北海道は札幌・函館を始めとした道南もしくは沿岸部しか開発されてなく、内陸はアイヌ人が点在する他は原野が広がる、未開の地とも言えました。
石狩平野が候補となりましたが、人が通れる道など少なくて、当初は船で石狩川を遡っているんですよね。
東京から連れてこられた囚人たち*1はこの世の果てに来てしまったくらいの絶望した様子が描かれています。
ちょっと現代では信じられないですが、まだ人が入ったことのないアフリカか南米の奥地に連れて行かれたような感じでしょうか。
現に候補地とされた石狩川上流の華戸郡須倍都太(すべつぶと)は有望な沃野ではあるものの、周辺は原始林と湿地に囲まれていて、たとえ逃げ出しても生き延びるのは困難な地。*2
そんな中で重労働を課せられた様子が詳細に描かれます。
季節が過ぎれば、追い打ちをかけるのは厳しい寒さ。今よりもずっと囚人に対する扱いが厳しい時代ゆえにろくな防寒具など与えられず、内地と変わらぬ囚人服で雪の降る中で労働すれば、凍傷にかかるのも当然でしょう。
病気に罹ってもろくな薬もなく、次々と亡くなっていく囚人たち。
しかし、内地からは続々と新たな囚人が送られてくる。
須倍都太だけでなく、他にも監獄が作られて、中には炭鉱での過酷な労働を強いられます。
さらに各地への連絡手段を取るために道路建設にも従事させますが、人力で原野を切り拓いていくのは想像以上に辛いものであったようです。
囚人たちは逃亡防止のために鉄丸・鎖に繋がれて、反抗すれば独房に入れられて食事を抜き、実際に逃げ出せば容赦なく斬殺。
タイトルは囚人たちが来ていた囚人服にちなんでいて、逃げ出しても赤い服はよく目立つのですぐに見つかってしまうのでした。
病死・事故死が相次ぎますが、民間に委託するよりもコストがかからず、内地からいくらでも補充は効く存在。温情を与えればつけあがるとして、看守たちはもっぱら厳しい態度で臨んでいました。
現地の囚人たちに対しては、いわば消耗品のような扱いであったことがよくわかります。
当然、囚人たちが看守に向ける憎悪は強いものであり、脱走に成功した途端に逆襲した事例もあったようです。
結局、開発が順調に進んだこと、内地が落ち着いて送られる囚人が減ったことなどから華戸の監獄は大正年間に廃止されました。
今と違って人命が軽い時代であったとはいえ、北海道開発の闇の部分が窺える内容でした。
最後の典獄(後に言う刑務所長のような立場)を務めていた人物は華戸の監獄がその役目を終えた後、その地の寺に入って死んだ囚人を弔うことになりました。看守としても非常に辛い役目であったのでしょうね。

*1:死罪・無期懲役・10年以上の有期刑といった重罪犯。

*2:近くに小さな開拓村がある他はアイヌ人が居住していたくらい