吉村昭 『アメリカ彦蔵』

アメリカ彦蔵 (新潮文庫)

アメリカ彦蔵 (新潮文庫)

  • 作者:昭, 吉村
  • 発売日: 2001/07/30
  • メディア: 文庫

内容紹介

嘉永三年、十三歳の彦太郎(のちの彦蔵)は船乗りとして初航海で破船漂流する。アメリカ船に救助された彦蔵らは、鎖国政策により帰国を阻まれ、やむなく渡米する。多くの米国人の知己を得た彦蔵は、洗礼を受け米国に帰化。そして遂に通訳として九年ぶりに故国に帰還し、日米外交の前線に立つ──。ひとりの船乗りの数奇な運命から、幕末期の日米二国を照らし出す歴史小説の金字塔。

戦国時代には日本から大陸や東南アジアまで船が行き来していましたが、江戸幕府による鎖国政策もあり、大型船の建造が中止されると、航海技術も停滞しました。
よって商船は国内の沿岸に沿って航行するのですが、いくつもの難所があって、荒天の際はいともあっさり太平洋を南もしくは東方向へと延々と漂流してしまっていたようです。
著者には漂流した挙句に無人島に上陸、苦労して生き延びたり、他国へと行きついた漂流者の作品がいくつかありますが、本作もその一つ。
時代は江戸時代も終盤に差し掛かった嘉永年間(将軍は13代家定)。欧米列強が中国大陸や日本沿岸へと押し寄せてきた時代です。

父を早くに亡くした彦太郎は母の再婚相手の家に引き取られるのですが、船頭である義父と水主となった義兄に憧れて、自分も船乗りになりたいと思うようになります。
しかし、母の反対もあって、いったんは商人になるために勉強するも、母が亡くなった13歳の時、義父に誘われて初航海に挑みます。
ただし、途中に寄った港で知り合いの船主に見込まれて乗り込む船を乗り換えます。それが運命の分かれ道だとは知らずに…。

彦太郎の乗り換えた栄力丸は江戸に向かう途中、紀伊半島の沖で時化に遭い難破してしまいます。
幸いなことに積み荷に米俵があったことから飢えることはなかったものの、破船状態(帆柱も舵もなく、流されるまま)で漂流すること約2か月。
南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助されたのでした。
そのままアメリカ西海岸の都市サンフランシスコまで辿り着いた一行。
思わぬ異国の地に戸惑いますが、アメリカ人の多くは親切であり、彦蔵(外国人が呼びやすいように彦太郎から改名)たちは現地で言葉を覚え、仕事をして暮らします。
当時、鯨漁の基地を求めていたアメリカは日本との通商のために東インド艦隊長官・ペリーによる使節を派遣することになっていました。
漂流民を送り届けることはそのきっかけ作りになるとして、彦蔵たちもいったん香港を経由して母国へと向かうことになります。
しかし、問題は幕府が鎖国を国是としていること。実際に香港で出会った日本人・力松より、イギリス船に乗って日本に向かうも大砲で打ち払われたと聞き(モリソン号事件)、すぐに帰国するのは無理だろうと諦めるのでした。

後世の我々からすれば、異国船打払令が出された天保年間とは事情が違い、外国の脅威を知った幕府の対応が変わっていったことを知っています。
しかし、当時の庶民からしたら、一度外国に出てしまえば大罪になるというのは常識。
お上に逆らったら大変だという長年の習慣が染みついています。
作中でも外国船に乗り込んできた役人を前にした漂流民が土下座して震えている様子が何度も描かれています。
それくらい重いことだったのでしょう。

はるばる香港まで一緒にやってきた栄力丸の乗組員(船頭は病死)はそこでバラバラになり、彦蔵を含む3名が再びアメリカへ行くことになり、長らく滞在することになるのです。
サンフランシスコに戻った彦蔵は税関長のサンダースに気に入られて、ほとんど養子待遇で教育を受けさせてもらいます。
本当の父のような愛情をもらったサンダース始め、船乗り、軍人、商人など多くのアメリカ人の恩を受けている様子がわかります。*1
もちろん、彦蔵自身が真面目でまっすぐな性格をしていたというのもあるでしょうけど、この頃のアメリカ人の面倒見の良さは特筆すべきですね。

日本が開国したことにより、彦蔵の帰国が可能となったのですが、先に洗礼を受けてキリシタンになっていたために帰化してアメリカ人として同行します。
アメリカ暮らしが長くなった彦蔵は会話だけでなく、英語の読み書きまで上達していたことや、仕事を通じてアメリカの商取引の知識も蓄えていたことで、アメリカ領事館で通訳として引っ張りだこになるほど活躍。
しかし、開国反対派による尊王攘夷がはびこるようになっていて、浪人たちの標的は外国人だけでなく、海外取引で儲ける商人や彦蔵のような通訳にまで及んでいました。
せっかく帰国が叶った上、学んだ英語を活かして仕事に励んでいたのに同じ日本人から命を狙われるとは、この頃の彦蔵が受けた恐怖や絶望は非常に強いものだったことが伝わってきます。
もっとも、後に長崎のグラバー商会で働くようになって伊藤博文らと親交を結んだのですが、かつては長州藩尊王攘夷を旗頭としていたことをどう思ったのかがちょっと気になりました。

ともかく、名実共にアメリカ人同様となった彦蔵は時代に翻弄され続けた人生であったことがわかります。
良いことも悪いこともありましたが、どちらかというとサンダースを始めとするアメリカ人の温情を受けたことが印象的でしたね。*2
尊王攘夷の激しかった頃はアメリカに戻ったりしましたが、それでも最後は日本に戻り、故郷にも訪れたりしています。
日本に生まれた以上は日本人としてのアイデンティティは捨てられなかったのでしょうか。
ただし、開国間もない時代の田舎の村人にはすっかり外国人と化した彦蔵を受け入れることができなかったのが悲劇的でありました。
大作であり、日本を巡る当時の国際事情を知るには良いのですが、彦蔵とは関係ない部分の記述も長かったのは確かでした。

*1:リンカーンを始めとして大統領と面会までしている。

*2:南北戦争が始まると国内が殺気立って雰囲気も変わる。