吉村昭 『深海の使者』

新装版 深海の使者 (文春文庫)

新装版 深海の使者 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

太平洋戦争が勃発して間もない昭和17年4月22日未明、一隻の大型潜水艦がひそかにマレー半島のペナンを出港した。3万キロも彼方のドイツをめざして…。
大戦中、杜絶した日独両国を結ぶ連絡路を求めて、連合国の封鎖下にあった大西洋に、数次にわたって潜入した日本潜水艦の決死の苦闘を描いた力作長篇。
昭和17年秋、新聞に大本営発表として一隻の日本潜水艦が訪独したという記事が掲載された。当時中学生であった著者は、それを読み、苛酷な戦局の中、遥かドイツにどのようにして赴くことができたか、夢物語のように感じたという。
時を経て、記事の裏面にひそむ史実を調査することを思い立った著者は、その潜水艦の行動を追うが……戦史にあらわれることのなかった新たなる史実に迫る。

第二次世界大戦では隣国同士のイギリスとフランス、大西洋を隔てたアメリカ、北海や中東もしくは太平洋を通じてソ連、と連合国側は緊密な連携を取れていました。
しかし、枢軸国側となると同じヨーロッパのドイツ・イタリアその他東欧諸国はともかく、極東に位置する日本は孤立していているのが問題でした。
ドイツがソ連と戦端を開く前ならば鉄道や航空機でユーラシア大陸を横断しましたが、対ソ戦が始まると、海路を利用せざるを得なくなります。
すなわち東シナ海からマラッカ海峡を通り、インド洋を横断。マダガスカルの南方からアフリカ大陸最南端を通り、大西洋を一気に北上するという長大なルートです。*1
途中の多くの拠点は連合軍によって押さえられているため、補給や安全性という面でも困難でした。
そうなると、選択肢は潜水艦による往還となるわけです。*2
日本が南方作戦で東南アジア一帯を押さえ、ドイツ軍がフランスを屈服させたために互いの潜水艦基地があるペナンからロリアン間となりましたが、それでもほとんどは連合国が制空権・制海権を握っている海域を渡っていかざるを得ないのでした。


本書はまだ存命であった関係者への聞き取りと豊富な資料を元に史実を淡々と綴った内容です。
約5か月間におよぶ長い航海のうち、半分を占める大西洋の航海は苦難の連続だったようです。
現代とは違い、当時の潜水艦というのは潜水が可能な艦というだけで、水上航行が基本でした。
それゆえに敵哨戒機・艦船を発見、もしくは発見された場合は何時間も潜行してやり過ごすわけで、いつ機雷によって穴が開き沈没するかもしれないという恐怖や時間が経つにつれて艦内の酸素が減って乗員は苦しみつつも耐えるだけという想像を絶する苦心惨憺な様子が伝わってきました。
それだけに無事ドイツに辿り着いた時の歓喜が相当なものだったのでしょうね。
ドイツに到着した日本の潜水艦乗務員への歓迎ぶりが想像以上でしたが、それだけ当時は同盟国間の連絡が困難だったからでしょう。
結局、戦時中に日本から送られただけでも5回。ドイツ側からのUボートの派遣(譲渡)が2回。
完全に帰還できたのがそれぞれ1回だけ。時期が経つにつれて戦局が悪化して、成功の見込みが薄れていくのがよくわかります。
運が良ければ助かる見込みがある水上艦と違い、潜水艦というのは水中でダメージを喰らったら沈むのみで生還は絶望的。
乗員や同乗者はもとより、当時の日本が渇望してやまなかったレーダーやジェット機に関する技術的資料や機材までもが失われたのは惜しかったと思われました。


ちなみに潜水艦以外に長距離飛行を可能とした航空機による連絡もされたことも記載されていますね。
実際にイタリア機は中国北部にある基地まで無着陸で到達さえしています。
しかしそのルートはソ連領内を横切ることになり、太平洋戦争遂行中の日本(東条首相)はソ連を刺激することをひどく恐れていたため、飛行ルートは大きく南方へ迂回するしかありません。
搭載量は限られているとしても、5か月かかって往復している間に戦局が変わってしまう潜水艦より、50時間超と短く済むために航空機による連絡にも期待がかけられ、一度、日本から試みられました。
しかし、これもインド洋の途中で消息を絶ってしまい、継続されることはなかったようです。

*1:スエズ運河はイギリスが押さえているために地中海には出れない。

*2:ドイツは商船を武装させた仮想巡洋艦を就航させていた