吉村昭 『海の祭礼』

新装版 海の祭礼 (文春文庫)

新装版 海の祭礼 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

鎖国の日本に一人の青年がたどり着いた……異国人英語教師を通して開国の背景を描く傑作長篇!
ペリー来航5年前の鎖国中の出来事である。日本に憧れたアメリカ人青年ラナルド・マクドナルドが、ボートで単身利尻島に上陸する。その後、長崎の座敷牢に収容された彼から本物の英語を学んだ長崎通詞・森山栄之助は、開国を迫る諸外国との交渉のほぼ全てに関わっていく。彼らの交流を通し、開国に至る日本を描きだす長編歴史小説
ラナルド・マクドナルド(1824~1894)アメリカ北西部の町、フォート・ジョージで、イギリス人の父とアメリカ先住民の首長の娘の間に生まれる。混血としての将来を悲観し、船員となり世界を巡るうち、日本に強くひかれるようになる。ついに決意し、日本近海で漁をする捕鯨船に乗り込み、ボートで利尻島に上陸を果たす。弘化5(1848)年、マクドナルドは24歳であった。

現在では信じられない話ですが、19世紀までは鯨から取れる鯨油を求めて捕鯨が非常に盛んでした。
新興国であるアメリカにとっても重要な産業であり、太平洋岸にまで領土を広げるや、ハワイ諸島を基地として、鯨を追って太平洋を西へと進出。
ついには日本近海にまで捕鯨船が進出するようになっていました。
当時の捕鯨産業は鯨油が主であり、身体の一部のみ使うだけで、肉を始めとしてほとんどを捨てていて、船内で鯨油を取るために大量の薪を使用していました。
遠くからやって来た捕鯨船が欲するのは水、食料、薪など。
ヨーロッパから来る船は東南アジアから中国にかけて基地を開拓していましたが、太平洋を乗り越えてくるアメリカ船にとってはちょうど日本が補給のために絶好の位置にあったというわけですね。
補給のために近寄ることもあれば、船が故障したり難破して島々に上陸することも当然ありました。
当然、江戸幕府が治める日本では鎖国の真っ最中であり、外国船は見つけ次第に打ち払う命令が出ました。*1
その後、列国の事情が知られるにつれて、打払令は撤回されて薪水給与令(天保13年(1842年))が出されて、交渉には応じられないが、穏便に帰す対応になりました。


そんな状況の中で漂流してきた外国人の扱いもできるかぎり丁寧に扱い、外国との唯一の窓口である長崎に送り、オランダ船で国外に出て行かせる方針だったようです。
前半部分の主人公は貿易商に勤めるイギリス人の父と先住民(インディアン)首長の娘との間に生まれたラナルド・マクドナルド。
外見はインディアンの血が濃く出た黒髪黒目であり、独立して間もない初期アメリカ人とは決定的に違う素質を持っていました。
父の命によって学校で学んでいる時に感じた差別、やがて船員となってからは列強国以外の人種を人とは扱うことなく徹底的に踏みにじる様を目にして嫌気がさすようになります。
そんな彼が憧れるようになったのは太平洋の向こうにある日本という国。
想いが強まったマクドナルドは捕鯨船に乗り組み、捕鯨を終えて帰還する前に自主的に舟を降りたのでした。
ボートに乗って辿り着いた先は北海道の利尻島
怪しまれないように漂流者を装い、海辺でアイヌ人に発見されて、島の役人に保護されることとなったのでした。


かなり意外だったのが、役人たちが異国人の保護にずいぶんと気を遣っていたことですね。
脱走はもちろんですが、体調を崩して死亡させることさえ責任問題となるのを恐れていたようです。
問題(異国人の扱い)を大過なくやり過ごすことを最優先として、トラブルとなって責任を取らされる(切腹させられる)ことを何よりも恐れるのが現代の役人気質に通じているような気がします。
彼らにとって幸いなことに念願の日本上陸を果たしたマクドナルドはきわめて従順でした。
蝦夷での取り調べの後、マクドナルドは長崎に送られます。
実は別の捕鯨船の船員たちが18名保護されていたのですが、自ら進んで上陸したマクドナルドとは違って、彼らは不慮の事故により置いて行かれた立場。
言葉が通じないのはほぼ同じであっても、集団ということもあってか、待遇に不満を抱き、大声で騒いだり、時に脱走までしたことで、次第に扱いが厳しくなっていったのでした。
自由に外に出すわけにはいかない待遇とはいえ、従順なマクドナルドには食事などの扱いも良くなったのですが、会話が通じないのは変わらず。
実は当時の日本人では外国語といえばオランダ語
オランダ以外にイギリスも勢力を増してきていると知って英語を学ぼうとしていたのですが、学ぶ相手がオランダ人であったためにオランダ訛りが強く、いざイギリス人・アメリカ人と会話しようとしてもまったく通じなかったのでした。
そんな中で通詞(通訳)の一人がマクドナルドが日本語を書きとって覚えようとしていることを知って驚愕します。
実際のところ、日本に興味を抱いていたマクドナルドは蝦夷にいた頃から日本人と身振り手振りを通じて言葉を覚えようとしていたのでした。
自分たちが苦労して覚えた英語がろくに通じないことにショックを受けていた通詞たちはマクドナルドを師として本当の英語を教えてもらい、代わりに日本語の教授を行うことになったのでした。


外国からの接触が増え始めていた当時、外国語の中でも英語習得を目指していた日本人にとって、マクドナルドによる授業はまさに目からうろこであった様子がよくわかります。
一番弟子で最優秀とも言われた森山栄之助は後にペリーが来航した際に正しく伝わる英語を駆使して通訳を務めるまでになりましたし、船員たちと雑談ができるほどに上達した様子が描かれています。
マクドナルドとの出会いが当時の日本人にとって、どれだけ大きかったのかがよくわかります。
同じく日本語を習い始めたマクドナルドですが、場所が長崎であるために「good」=「良か」などと長崎弁が混じっているのが微笑ましかったです。
ただ、原則として外国人を国内に留めておくことができないため、マクドナルドの滞在はわずか1年ほどであったのが惜しかったですね。
時代的に許されなかったのはやむを得ませんが、事情が許せば特別顧問として迎えて、両国の架け橋になれたかもしれない人物でした。
別の船から上陸したグループは何度も脱走騒ぎを起こしては最後に牢獄入りしたのとは対照的です。
もっとも、帰国した彼らが自分たちの身勝手さを棚に上げて日本人のことを嘘を交えて悪しく伝えたために対日感情が悪くなったのが残念でした。


マクドナルドたちが帰国するまでは開国前の知られざる外国人事情ということで大変面白く読めました。
その後は主にペリー来航による折衝がメインとなります。
物語というよりは歴史書といった硬めの記述でしたね。
すでに東アジアの通商相手は中国が存在していることから、資源に乏しい日本との通商は二の次で、先に述べた通りに第一に捕鯨船基地として利用したかったこと。
各国の事情により、日本への接し方に差があったこと。
意外なことに日本の知識階級は諸国の情勢に通じていたこと、など興味深い事実が多かったです。
日本が鎖国制度に縛られていたことや技術的な遅れなど致命的な点はありましたが、理不尽なほどに強圧的で相手に忖度せず要求を押し通すアメリカとなんとか場を収めてやり過ごすことに終始する日本という構図はこの頃から定められてしまったような感じがして、なんともやりきれない思いを抱いたものです。

*1:異国船打払令1825年(文政8年)