吉村昭 『高熱隧道』

高熱隧道 (新潮文庫)

高熱隧道 (新潮文庫)

内容紹介

黒部第三発電所――昭和11年8月着工、昭和15年11月完工。人間の侵入を拒み続けた嶮岨な峡谷の、岩盤最高温度165度という高熱地帯に、隧道(トンネル)を掘鑿する難工事であった。犠牲者は300余名を数えた。トンネル貫通への情熱にとり憑かれた男たちの執念と、予測もつかぬ大自然の猛威とが対決する異様な時空を、綿密な取材と調査で再現して、極限状況における人間の姿を描破した記録文学

プロジェクトXで放送された黒部ダム(黒部第四発電所)。
それは険峻な黒部峡谷に作られた巨大ダムですが、それより20年くらい前に下流仙人谷ダム(黒部第三発電所)建設のため想像を絶する難工事に挑んだ者たちがいました。
時代は昭和に入り、国外では中国大陸がきな臭くなり始め、国内では主に工業関係の電力需要が高まってくるも、供給が足りずに関西地方ではしばしば停電することもあるくらいでした。
それゆえに秘境として残されていた黒部峡谷を利用して大規模な発電所を建設することは国家的事業でもあったようです。
とはいえ、道なき秘境に道を通すところから危険きわまりない様子が描かれます。
峡谷の断崖絶壁に沿って丸太を通しただけの狭い桟道であったり、非常に危なっかしい吊り橋であったり。
人一人分にあたるほどの重さの資材を雇われた人足が運ぶ際に転落死亡事故が何度も起きて、歩道の拡張命令が出たほどでした。
三つの区画で仕切られたうちでもっとも上流である仙人谷 - 阿曽原の第一工区に資材運搬用トンネルを掘削していく工事がもっとも難易度が高いと予想されていました。
というのも、最初に受注した加瀬組がわずか30m掘り進んだだけで岩盤温度が60度に達したことで工事を途中で辞めてしまったからでした。
実は一帯は有数の温泉地帯であり、そんなところを人力でトンネルを掘るなど正気の沙汰ではなかったというわけです。
作中では工事を請け負った佐川組の幹部社員の視点からいかに黒部の厳しい自然が工事の進捗を阻んでいたかを淡々と綴っています。
触れたら火傷を負うほどの熱い岩盤や突然噴き出してくる熱湯。
内部に籠った異様な熱気により、30分としていられないほどの中で作業する人夫のため、後方からホースで水をかける「かけ屋」がいて、かけ屋のためにもその後方からホースで水をかける人がいて。
掘り進めるほどに上がっていく岩盤温度。地質学者に再調査を行わせたところ、94度で止まり、そこからは下がっていくとの調査結果でしたが、予想に反して下がるどころかぐんぐんと上がっていく一方。
100度を軽々と超えてしまい、ついには発破をかけるためのダイナマイトが自然発火し、8名死亡、6名が重傷を負うという事故が起きました。
側坑を掘ったり水や風を利用してトンネル内部の温度を下げる試みやダイナマイトに熱が伝わりにくくするなどの策をこうじて乗り切ったものの、立ちはだかるのはそればかりでなく。
充分に雪崩対策を行った頑丈なはずの宿舎が深夜に突然の爆発音と共に3階以上が消え去ってしまいます。
それは泡雪崩という現象が起こったためであり、切断された上部の木造部分が峡谷の対岸600メートル余り吹き飛ばされた挙句に岩壁に叩きつけられ、84名の死者という大惨事を引き起こしました。
これにより、富山県警からは事故に対する調査ならびにこれ以上犠牲者を出さないために工事の中止が強く言い渡されます。
しかし、ほぼ国策といっていいこの工事は一時的な中断の後、再開されたのでした。


最終的に300人余りの犠牲者を出しつつ敢行された工事の最終工程がクライマックスであるのと同時に読み進めていくのが辛くなるほどに重いものでありました。
主人公の述懐にあるようにもともとトンネルの掘削現場は危険と隣り合わせなのは当たり前。技師は目の前で無残な死やむごい死体を見ることに慣れていくものだとか。
今とは人命に関する価値観が大いに違っていたのもあるのでしょう。
人夫の命を使い潰す勢いで工事が進められていたといっても過言ではありません。
とはいえ、いくら大金が支払われたからといって、むざむざ死を目の前にして作業が続けられるわけがなく。
高熱をあらゆる手段で冷まして、少しでも安全に、少しでも働きやすくしようと現場責任者が四苦八苦する様や、力及ばず犠牲を出してしまったことの絶望や後悔が強く伝わってきました。
最終的に160度以上に達したという高熱隧道での作業はこの時代の技術ではあまりに無謀であったとしか言いようがありません。
それでも、多数の犠牲を払い何度も中断の憂き目に遭いながら突き進み、ついに完成させました。
黒部第四だけでなく第三の難工事についても時代の象徴として広く伝えられていくべきだと思いましたね。