岩井三四二 『とまどい関ケ原』

とまどい関ヶ原 (PHP文芸文庫)

とまどい関ヶ原 (PHP文芸文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

敵中突破しての大坂行き。でも、同行者がヘンだ!毛利家の野望と、安国寺恵瓊の習慣は相性が悪い?両軍にいい顔をしたら、わが城が東西の境目に!手勢わずか六百。なのに関ヶ原の勝敗の鍵を握らされた!天下分け目の合戦は人生の分かれ目!栄達か、しからずんば死か。大きな岐路を前にとまどう男たちを、温かく(?)描いた傑作短篇集。

名高い関ケ原の戦いの中でも主役たる徳川家康石田三成ではなく、そこそこ名の知れた武将からまったく無名の家来までが世紀の決戦を前にしていかに戸惑ったかを取り上げた短編集となります。


「大根を売る武者」
会津征伐のために東国へ赴いた徳川家康石田三成が糾弾したことにより、ついに東西の戦いが始まろうとした頃、家康に付き従っていた豊臣恩顧の大名の多くは三成憎しの感情や打算から東軍に属することになりました。
ただし問題は大阪に人質として置かれた家族。
軍勢に先駆けて真っ先に大阪に入って戦になることを知らせ、叶うならば救出させたいところ。
池田家でその使者に選ばれたのが渡辺惣左衛門と野中市左衛門の二人。
しかし、東国から大阪へと至る道はどこも厳重に警戒をされていて・・・。
あまり知らない人物と過酷な任務をこなさなねばならない宮仕えの辛さ。
信じていた相棒に最後に良いところをもっていかれるというのはどの時代でもありそうな話。もっとも、相方としても言い分はありそうですね。
『常山紀談』でとりあげられた池田家臣、渡辺惣左衛門と野中市左衛門の逸話が元らしいです。


「百尺竿頭に立つ」
毛利家外交僧・安国寺恵瓊が主人公。
石田三成に近い彼は主君・輝元を西軍の総大将に祭り上げようとします。
しかし、彼にも苦手な相手・吉川広家がいて、広家は家康に誼を通じようとしていたのでした。
最初から大名自身が旗幟を鮮明していたわけでなければ、多くの家中では意見が分かれていたようです。西軍の最有力大名たる毛利でさえも例外ではなく。*1
石田三成に近い安国寺恵瓊がいながら、関ケ原の戦いで実質的に不参加となってしまった原因は対立が残ったままだったという理由がよくわかる内容ですね。


「松の丸燃ゆ」
東西手切れで真っ先に西軍の攻撃目標となったのがかつての家康の居城で老将・鳥居元忠が留守を預かる伏見城
家康の来援が間に合わない以上、徳川の意地を見せるためだけに戦う死兵であり、実際に頑強に抵抗していました。
攻め方としては、忠誠心強い徳川武士は端から諦め、雇われていただけの甲賀衆に付け入ろうとするわけです。
関ケ原の戦いの前哨戦でしかない攻防ですが、命のやり取りをしていた当人たちは必死。特に守る方の甲賀衆の侍大将として、部下たちが人質を取られて動揺しては戦うどころじゃないわけで・・・。
いかにも歴史の影に埋もれた一武将の悲哀といった内容でしたね。


「日本一幸運な城の話」
歴代城主のほとんどが非業の死を遂げた岐阜城の近くにありながら、城主はそこそこ長生きして、一度も落城することなく現代まで天守が残されていることから、日本一幸運な城としたのが犬山城
関ケ原の戦いの時、犬山城がどのような運命を辿ったかと記しています。
もう10年以上前になりますが、犬山城には実際に行ったことがあって懐かしい思いがしました。
戦国争乱の中心ともいえる美濃にあって、確かによくぞ無事に残っていたものだと思います。
岐阜城大垣城の影にあって、さほど重要視されなかったのも幸運であったのでしょうか。
作中においては、当時の城主であった石川貞清のユニークで不器用な生き方も印象に残りましたね。


「草の靡き」
いざ戦場に臨んでも、西軍のまま戦うか、それとも東軍に寝返るか決められずにいたのが朽木家。というのも、当主元綱は内政こそ優れていても、外交経験無く外部の情勢に暗かったから。
善戦する大谷吉継の陣のそばで小早川秀秋の裏切りに備えていた朽木家は戦いの最中でもまだ意見が割れたままでした。
数万の軍勢がぶつかりあおう戦場において、たかが数百人の軍勢が勝敗の鍵を握るなんて滅多にないと思うのですが、その滅多にないことが起こったしまったというわけです。
もしも、朽木を含めた四家が大谷吉継の思惑に乗って小早川の軍勢を抑えてしまっていたら、どうなっていたでしょうか?
まだ戦に参加していなかった徳川の本軍や毛利その他次第ですが、状況が変わっていた可能性があります。
ともかく、草の靡きが東軍の勝ちを決したという見方はあるのでしょうね。


「すべては狂言
関ヶ原東南、南宮山に陣取った毛利家の軍勢はちょうど東軍の背後を衝く絶好の位置にありました。
しかし、その先頭にある吉川広家は内応済で、いくら秀元や安国寺恵瓊らがせっついても動くつもりなく。毛利が動かないと、その後ろにある長宗我部盛親も動けない。しまいには「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれるほどでした。
目論見通りに東軍が勝利したのですが、予想と違い毛利家は改易されることが決まっていて・・・。
味方だった西軍の諸将を騙し首尾良くいったと思ったが、家康の方が上だった広家の落胆ぶり。
それに主家を守ったはずが毛利家の中では裏切り者という扱い。
そのあたりの複雑な心境が印象的でした。

「敵はいずこに」
東海道を西上した家康とは別に徳川家の軍を率いて中山道経由で大阪に向かったのが徳川秀忠
しかし、信州にて真田氏が籠る上田城を揉み潰そうとして逆に手痛い反撃を受けてしまっていました。
そこに家康からの使番に催促されたこともあり、抑えの軍を置いて急ぎ進軍することにします。
しかし、山深い信州ゆえにそう簡単にいくわけがなく、結局決戦には間に合わなかったのでした。
戦に関しては兄や弟に及ばない秀忠。
老獪な真田昌幸に翻弄されたとはいえ、関ケ原の戦いに遅参したことは大きな汚点として残りました。
もしかしたら、後継者レースから脱落してもおかしくない状況であったかもしれません。
それでも赦されたのは彼が幕府の二代目にふさわしかったから。それが良くわかる結末でしたね。


「19歳のとまどい」
関ケ原の戦いから数十年、西軍に味方した(未遂や疑い)とされて奥州に流されて隠居生活を送る宮部長房の語り。
彼の言葉によると、最初から家康に味方するはずだったのに、信じていた田中吉政*2に利用されて裏切られた挙句、西軍に通じていたとされてしまったのだと言うわけです。
現代であれば未成年ですが、当時の19歳ならばとっくに一人前になっている年齢。
秀吉の草創期から支えて城持ち大名に成り上がった父・継潤と違って、最初から大名の嗣子として生まれた長房の甘えばかりが目立ちます。
己の至らなさを全て田中吉政のせいにしているといっても過言ではありません。
それでもそこそこの生活を送れて、子にも恵まれたのだから、悪い人生ではなかったのではないでしょうか。歴史的な評価は別として。

*1:当主・輝元が凡庸で、政務面で支えていた小早川隆景に代わる者がいないのが大きかった

*2:同じ近江の出身で、父・宮部継潤の部下でもあった