貫井徳郎 『壁の男』

壁の男

壁の男

内容紹介

ある北関東の小さな集落で、家々の壁に描かれた、子供の落書きのような奇妙な絵。
その、決して上手ではないが、鮮やかで力強い絵を描き続けている寡黙な男、
伊苅(いかり)に、ノンフィクションライターの「私」は取材を試みるが……。
彼はなぜ、笑われても笑われても、絵を描き続けるのか?

寂れかけた地方の集落を舞台に、孤独な男の半生と隠された真実が、
抑制された硬質な語り口で、伏せたカードをめくるように明らかにされていく。
ラストには、言いようのない衝撃と感動が待ち受ける傑作長篇。

舞台は北関東の小さな町。
片田舎の例に漏れず、少子高齢化が進んだ静かな町が話題を呼んでいるという。
町の家々の壁に堂々と絵が描かれてあるのですが、技巧などない平面的な絵で小学生低学年の作と言ってもいいくらい。
だが、色鮮やかで力強さを感じさせる絵柄は見ているだけでなんとなく心が奪われてしまう。
そのためにSNS上でも話題となって、町には観光客が訪れるまでになっているというのです。
それを知ったノンフィクションライターは現地に取材に訪れて、絵を描かせた家の人に話を聞いてみたところ、最初から観光地化を狙ったわけでもないし、強引に描かれたわけでもない。金銭の授受さえ発生していないと聞いて驚いてしまいます。
そこで当の本人に取材を試みるが、伊苅という名の寡黙な50男は多くを語ることなく、謎は残るまま。
彼はどんなそれまでどんな半生を送ってきたのか?
どうして壁に絵を描くようになったのか?


最初は東京での仕事を辞めて生まれ育った町にUターンしてきた伊苅が亡き母のアトリエを改修して小学生相手の学習塾(受験というより授業の復習程度)を始めたところ。
地元出身者なのですぐに溶け込めるだろうと思ったが、なかなかうまくいかなくて、かつての同級生をきっかけに少しずつ生徒が増えていきます。
そのうち、塾の中の白い壁が気になり、突然絵を書いてみようと思い立ち、教え子たちと子供っぽい絵を描いていきます。
塾の中が絵で埋まると今度は外の壁へ。一度書き始めると、心の奥の情熱に駆られたように稚拙な絵を書きたくなったのです。
その頃、かつて仲良かったのに東京に進学することで仲違いしてしまった幼馴染が子を事故で亡くしてしまいます。
ある日、幼馴染は伊苅が壁に描いた絵を見て、自宅の壁にも書いて欲しいと頼むのです。
伊苅が描いたのは亡くした女の子の絵。
次いで、近くにできたスーパーのために商売が苦しかった雑貨屋の主人は駐車場に面した白い壁になんでもいいから目を惹く絵を描いてくれということで巨大な象の絵を描きます。
そうしてそれぞれの事情に絡みながら一軒ずつ伊苅の絵が増えていき、物珍しさから見に来る人も増えて、静かに衰退しつつあった町は少しずつ変わっていくのでした。


そうして、ノンフィクションライターの取材と並行して、伊苅の過去を遡っていきます。
ある日突然、難病に罹ってしまった娘・笑里。
稼ぎの関係で父親の伊苅が休職して苦しい闘病生活を乗り越えたのに5年後に再発してしまう。
看護のために退職して娘に付き添うも、脳に転移した腫瘍は笑里の体を蝕んでいって・・・。
さらに過去に遡り、東京で働いていた伊苅が大学の時にほのかな想いを抱いていた同級生の梨絵子に再会し、交際の後に彼女の特殊な事情を踏まえた上で結婚するも、娘の看病の合間に破局してしまうまで。
中学生時代の伊苅の家は工場勤務の父と美術教師の母がいたが、絵の才能を開花させた母が二科展に三年連続で入賞という快挙を成し遂げるも、それを素直に喜べない父は酒に逃げて嫌味を言うしかない状態でした。
そして最後は工場に出向していた25歳の伊苅がある社員と出会い意気投合。
同い年の彼は同じく孤児院出身の妻と結婚しており、家族ぐるみの交際を続けます。
子が欲しかった彼らのもとにようやく女の子が授かり、笑里と名付けられて・・・。


謎解きめいた要素もあるヒューマンドラマというのでしょうか。
伊苅が母のアトリエに対して抱いていた複雑な想いや父親のようになりたくなかった理由。
梨絵子が母親として娘に執着しなかった理由。その他諸々。
読み終えるといろいろと感慨深いものがありました。
最後の孤児院出身の夫妻と交流を持ったくだりは明るい雰囲気なのにどこか暗い予兆を感じさせるのが辛くて。生まれた女の子に笑里と名付けられて、そういうことかと。
最後の一行で伊苅がへたくそな絵を描くようになった理由が明かされるのですが、その予兆はかなり前の方で示唆されていましたね。
結局、ノンフィクションライターには真相まで辿り着きませんでしたが、平凡そうに見えた伊苅の半生は波乱万丈とまでいかなくても、深い悲しみが横たわっていて、幸せを求めていた男が経験した数々の別れはぐっと胸に迫るものがありましたね。
そんな彼が絵を書き始めようとした心境は他者が簡単に入り込める領域ではないのは確かです。