11期・1冊目 『ニコライ遭難』

ニコライ遭難 (新潮文庫)

ニコライ遭難 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
明治24年5月、国賓のロシア皇太子を警護の巡査が突然襲った。この非常事態に、近代国家への道を歩み始めた日本が震撼する。極東進出を目論むロシアに対し、当時日本は余りにも脆弱であった―。皇太子ニコライへの官民を挙げての歓待ぶり、犯人津田三蔵の処分を巡る政府有力者と司法の軋轢、津田の死の実態など、新資料を得て未曾有の国難大津事件に揺れる世相を活写する歴史長編。

冒頭で皇太子ニコライが来航した際のロシア艦隊の軍艦とそれを迎えに行く日本の軍艦のトン数が記されているのですが、思わず見間違えではないかと思ってしまいました。
お召艦アゾーヴァ号(6,734t)を始めロシア側は全て5000トン以上に対し、高雄(1,774t)・武蔵(1,480t)といった具合に比較になりません。
日清・日露戦争を経て海軍国として成長していった印象が残っていたのですが、明治維新から二十余年、近代国家への道を歩み始めた当時の日本は列強と比べるとまだまだ小国。*1
それに対してロシアは列強の中でも随一の大国であり、国力・軍備ともに比べようもなかった状況がわかります。
そんな中でシベリア鉄道の起工式のために極東に向かう予定の皇太子ニコライが日本に訪問したいとの希望を出した際、日本としては次期皇帝である彼を国をあげて歓待し、その印象を最高のものにしようと考えたのは当然の帰結でした。
ちなみにロシア皇太子ばかりクローズアップされていますが、実は親交のあったギリシャジョージア親王を途中で誘って来日したために日本国内ではロシア・ギリシャ・日本の国旗が掲げられていたというのは本書を読んで初めて知ったことの一つです。


有栖川威仁親王や陸軍中将川上操六を始めとして皇室や軍より接待委員を組織して準備を進め、最初の寄港地であった長崎では官民を挙げての歓迎。残念ながら上陸時は雨天であったために用意した花火は打ち上げられなかったけれども、式典の後も皇太子はお忍びで長崎の街を歩いて買い物したり食事を楽しんだ様子が描かれます。
その陰で日本の当局は軍事偵察目的の疑いを捨てきれず、皇太子に接触した人物全ての調書を取っていましたが、番傘をもらって上機嫌となったり店をのぞきこんでいた少女にかんざしを買ってあげたという心温まるエピソード、それに妓楼でお気に入りの芸者と一夜を過ごした段になって、これ以上の詮索は無用としたなど若い皇太子に対する印象がだいぶ和らいでいった様子がわかります。
長崎の次の寄港地は鹿児島。本来ならば瀬戸内海を通って神戸に向かうのが通常であるのにわざわざ鹿児島に寄ることにいろいろと憶測を呼びました。
その最大のものが西南戦争を生き延びた西郷隆盛が生きてロシアに落ち延びており、ロシアの支援のもとに鹿児島より復活するという噂だったとか(津田三蔵は西南戦争に従事して勲章を授与されていたので、噂通りに西郷隆盛が政府要職に復帰するとはく奪されると恐れていたことが襲った動機の一つとも)。
まぁ実際は明治維新の先駆けとなった薩摩藩の地を見てみたいという理由だったようですが。


その後、皇太子一行は神戸に上陸後、京都での接待と観光を楽しみ、琵琶湖観光のために滋賀に赴き、京都に帰る道中にて街道警備を行っていた警官津田三蔵が敬礼の後、無言で皇太子の頭にサーベルを切りつけました。
当人には過去に軽い精神疾患があったようですが、特に他人に害を与える程ではなく、犯行の動機について調査した結果は先に述べた西郷隆盛帰還の噂に加えて、ロシアの外交的な態度に反感を覚えていたためにちょうど来日した皇太子に「一本(一太刀)献上しよう」とした(殺すつもりはなかった)とか。
いずれにしろ警護の警官が襲ったことはそれまで手厚い警護を実施していた日本にとっても痛恨事であったと思われます。実際、京都へ帰還した皇太子一行の近辺から警察官は外され、代わりに陸軍が就くことになりました。
怪我の回復した皇太子自身は親日の印象を崩さず、周囲の反対を押して東京行を希望していたのですが、父皇帝の命によって帰国せざるを得なかった経緯が描かれます。


事件後、明治天皇や政府首脳を始めとして恐慌に陥った日本国内とその後の対応に関する記述に後半半分を割かれており、知られざる部分が多かったとはいえ比較的静かな雰囲気の前半と違って激動の連続となっているのが本書の醍醐味であると言えましょう。
日露関係の破綻(主にロシアからの報復と多額の賠償請求)を恐れた政府関係者だけでなく、民間も大いに動かしたというのがそれだけ衝撃の大きさを物語り、まさに国難であったというのも頷けます。
皇太子の滞在する京都に直接の接待関係者以外に続々と謝罪に訪れたり、全国各地からの見舞いが送られたというのはともかく、謝罪の意を表すために死してお詫びをした女性(畠山勇子)がいたことは一般人でも国を憂えた当時の気概が伺えると共に大きな波紋を呼んだことがわかります。
犯人家族への攻撃や犯人の名前を付けない条例を定めようとした村*2といった行き過ぎな例は今にも通じるものがありますね。


津田三蔵の刑を巡っては被害者の皇太子をどういう立場で捉えるかによって大いに揺れました。
規定が無い以上は法に照らし合わせて一般人に対する謀殺未遂による無期懲役を適用(旧刑法292条)という見解の司法関係者。一方でロシアを恐れて、皇室に対すて危害を加えたとする大逆罪(旧刑法116条)を適用しての死刑を求める政府。
司法の独立を巡り、実際に刑が執行されるまでの激しい議論や駆け引きの数々は実に緊迫感あふれていて目が離せませんでした。
結局ニコライ遭難事件は日本の迅速な謝罪と対応の成果もあって、外交関係に直接の影響は与えなかったようですが、現代に生きる私の想像以上に当時の日本が大いに揺れたかがわかる内容でした。
もしも大津での事件がなく順調に東京への訪問が行われて無事に済んでいたなら、約10年後に戦争へと発展する両国の関係に何らかの影響を与えることになっていたのか、それとも帝国主義の時代においてはさほど関係がなかったのかなぁとちょっと思ったりしました。

*1:陸軍はわずか6個師団。海軍も国産巡洋艦の運用を始めたばかり

*2:後に撤回された