10期・3冊目 『蒼氷・神々の岩壁』

蒼氷・神々の岩壁 (新潮文庫)

蒼氷・神々の岩壁 (新潮文庫)

鋭いアイゼンの爪もよせつけない蒼氷に覆われる厳冬期、石が水平に飛ぶ台風シーズン――富士山頂の苛烈な自然を背景に、若い気象観測所員の厳しい生活と、友情と愛と死を描いて息づまる迫力をよぶ長編「蒼氷」。ヒマラヤを夢み、岩と氷壁に青春を賭けた天才クライマーが、登攀不能といわれた谷川岳衝立岩を征服するまでの闘志と情熱の半生を描く実録小説「神々の岩壁」。他に2編併録。

著者が気象官として実際に富士山頂上での勤務していた経験をもとにしたと思われる中編「蒼氷」、それに登山家たちの様々な人間模様を描いた短編「疲労凍死」、「怪獣」、「神々の岩壁」が収録されています。
山は神聖であり、山に入る登山家は善人であるという伝説を覆し、山における人間の愛憎や精神的な影響によって思わぬ結末を辿るさまを生々しく描いているのが特徴と言っていいでしょうか。
そういう意味では冒険小説と言うより、サスペンスの色合いが強い作品集となっています。


「蒼氷」は頂上付近の観測小屋に勤める主人公に強い関心を抱く女性を巡る人間模様。
実際のところ、わざわざ命の危険を冒してまで主人公の職場に登ってきてかき回す恋敵たちを始め、登場人物たちの行動がいまいち理解し難く思われました。
それを抜きにしても日本最高峰における環境の厳しさは迫真に迫るものがあり、さすがに経験者ならでは表現です。
クライマックスは台風が直撃して小屋が崩壊の危機に瀕した時。
少しでも気を抜くと体ごと飛ばされる、風速100km越えの暴風が吹き荒れる中で死が間近に迫る場面は読んでいて息が詰まるようでした。


疲労凍死」は雪の八ヶ岳で弟を失った兄が同行者が弟を故意に置き去りにしたのではないかと疑い、調べ始めるという山のサスペンス。
ストーリーが進むにつれて人物の印象が変わり、思いがけない結末に翻弄された内容でした。
「怪獣」は初老の登山者が慣れ親しんだ北アルプスの登山行で山の獣に何度も出会う内に自身の過去の幻に囚われてしまい、危うく遭難しかけてしまう話。
怪異とは己の内面より出てくるということですね。
一見ホラーっぽい内容ですが、ラストは微笑ましいです。


最後の「神々の岩壁」は実在の登山家・南博人の半生を子供の頃からのエピソードから描いています。
スキーヤーだった父が後を継がせるために山に連れて行ったら登山、それも岩壁登りに魅せられたというのが面白い。
我流で丹沢の岩壁を登っていた時に東京雲稜会を立ち上げたばかりの吉野幸作と出会い、当時最新の登攀技術を教え込まれ、その才能を開花させて次々と難易度の高い岩壁を制覇していきます。
転機となったのは後の妻となる京子との出会い。結婚を許してもらうために登山を辞めるか続けるかという究極の選択に迫られます。
クライマックスは最後の登山にして国内最難関と言われた300mの谷川岳衝立岩登頂の場面ですね。
垂直に近い岩壁を少しずつ足場を確保しながら登ってゆくさまはこちらも緊張を強いられる描写であり、水が切れて体力の限界を迎えた時などは痛々しく感じられました。
それだけに天の恵みとも言える水源を見つけて完全制覇を成し遂げてられたのはほっとしましたね。
本作で書かれているのは昭和の時代の話ですが、現在ネットで検索してみると本人も渋谷で開いた店もご健在だということがわかって、なんか嬉しかったですね。