8期・24冊目 『凍』

凍

内容紹介
最強のクライマーとの呼び声も高い山野井泰史。世界的名声を得ながら、ストイックなほど厳しい登山を続けている彼が選んだのは、ヒマラヤの難峰ギャチュンカンだった。だが彼は、妻とともにその美しい氷壁に挑み始めたとき、二人を待ち受ける壮絶な闘いの結末を知るはずもなかった――。絶望的状況下、究極の選択。鮮かに浮かび上がる奇跡の登山行と人間の絆、ノンフィクションの極北。

読み始めるまではまったく知らなかったのですが、本書はヒマラヤやアルプスなどの極めて難易度の高い山、それも垂直に近い壁面をアルパイン・スタイル(軽装・少人数)で登るクライマーとしては第一人者である山野井泰史氏、同じくクライマーの妻・妙子氏の二人を追ったノンフィクションとなります。
まずは二人の生い立ちから山登りの出会い、そしてロッククライミングに魅了されていった半生が描かれます。
どちらも個性の違いはあれど、若い頃から山に登ることを志し、技術と経験を積み重ね、幾度かの怪我や事故を乗り越えて優れたクライマーという評価を得ていたという。
己の信じた道を往く姿はどこか世俗とは離れた超然としたところを感じます。


やがて出会った二人は惹かれあうようになり、結婚して共に生活を営むようになるのですが、夫婦というよりどこか同志のような関係だと思ったのは、やはり二人の生活が全面的にクライミングのためにあるからかもしれません。
もっとも活動の場は外国が多くなるわけで費用も莫大となるだけでなく、何日も家を空ける必要があるために正社員にはなれない。
実際に泰史氏は富士山の強力のような短期で実入りが多いアルバイトで登山費用を稼いでいたそうです。
普段はトレーニング場所に欠かない自然に囲まれた奥多摩の古家にて、できるだけお金のかからない暮らしを送っています。
常人には到底真似できないけれど、この二人にとってはごく自然体なのだと感じました。


そして二人が次なる目標に定めたのがヒマラヤの難峰ギャチュンカン北東壁。
標高は8000mに届かないことや、中国名に百谷雪嶺とある通り、アプローチが長いこともあってあまり名が知られていない山だそうです。
日本では装備も人員も大がかりで行う包囲法という登山が多いのですが、山野井夫妻が取るのは極限まで荷物を減らし、無酸素で短期間でアタックを掛けるアルパイン・スタイル。
それだけに当人の技術や知識は重要。世界中の難所を登ってきた夫妻はその第一人者なのであることがわかります。
そんな二人であってもやはり厳しい自然を相手には苦労している様が克明に描かれます。
元々高山病に弱い妙子氏はチベットの高地に入ってから頭痛などの体調不良に悩まされ、なんとか途中まで行動を共にしたものの、7000m付近で断念。
頂上までの岩壁は泰史氏単独でのチャレンジとなりました。
無事登頂成功後、今度は崩れ出した天候(吹雪)に悩まされ、登りよりも難しいとされる下りでは何度も雪崩に襲われるなど散々な目に遭います。
垂直に近い岩壁(もしくは雪壁)では身を横たえて休むこともままならず、数十cmの幅のスペースに腰掛けるか立ったままビバークするしかできません。
7日間におよぶ7000m以上での無酸素行動は人間としての限度を超え、手足の感覚はもちろん、視力さえも徐々に失われてゆき、幻覚さえ見るようになって、いつ滑落して命を落としてもおかしくないくらいの死と紙一重の連続にハラハラし通し。
極限状況における二人の闘いにはすさまじいものを感じました。
それでも何とかベースキャンプまで下山できたのは、卓越した技術と経験はもちろんですが、やはりどんな苦境にあっても冷静さを失わないところでしょうか。
過去に凍傷で手足18本の指を失っている妙子氏なのですが、泰史氏も一目置くその天性のバランス感覚といつなんどきもパニックに陥らない冷静さが今回も身を救ったわけです。
かつて山仲間を失った経験上から、山で死ぬ時は頭からやられる。でも今の私は意識がしっかりしているから大丈夫だというくだりがあります。
クライマーとしての技術・体力では泰史氏が上ですが、妙子氏のその精神力には感嘆させられました。この夫あってのこの妻ありということなんでしょう。


ギャチュンカンでの生きるか死ぬかの下山行だけでも充分読む価値あるのですが、それだけでは終わりません。
下山後、泰史氏は凍傷にかかった右足の指5本と左右の手の薬指と小指を付け根から失いました。妙子氏は両手の指を付け根から失いました。
凍傷で指を失った経験のある妙子氏と違って、泰史氏にとっては以前のようなクライミングができなくなったショックは大きく、一度は山への情熱を失います。
通常であれば日常生活を送るのでさえ支障あるわけですからね。
しかしそこからリハビリを始め、日常生活が送れるようになるとまた登山を始めてしまうまでがすごい。
伊豆での療養中、かつて二人でルート開拓した岩壁を目にして
「無理かな?」
「無理だと思う」
二度繰り返すその会話が夫妻の関係を微妙に表しているようで面白いかったです。
実際、3年後に泰史氏は中国での旅行中に発見したポタラ北壁を二度目の挑戦の末に登頂成功したとか。
泰史氏はギャチュンカンにて指を喪失しましたが、それだけで終わらず新たな勲章を獲得しているところに感嘆させられますね。


簡単な山登り程度ならともかく、本格的なロック・クライミングにはまったく素人なんですが、クライミングの技術的な点などもわかりやすく、読みやすい内容でした。
著者の主観を捨て、あくまでも山野井夫妻を中心にした描写につい惹きこまれて、様々な困難な状況を乗り越えてきた様子には感動を覚えました。
出会えて良かったと思えるドキュメンタリー作品です。