5期・57,58冊目 『クアトロ・ラガッツィ(上・下)』

内容(「BOOK」データベースより)
十六世紀の大航海時代キリスト教の世界布教にともない、宣教師が日本にもやってきた。開明的なイエズス会士ヴァリニャーノは、西欧とは異なる高度な文化を日本に認め、時のキリシタン大名に日本人信徒をヨーロッパに派遣する計画をもちかける。後世に名高い「天正少年使節」の四少年(クアトロ・ラガッツィ)である。戦国末期の日本と帝国化する世界との邂逅を東西の史料を駆使し詳細に描く、大佛次郎賞受賞の傑作。

天正の遣欧少年使節に関しては、日本史側から見た大雑把な知識しか無かったのですが、キリスト教が日本に到来した頃から始まる本書の内容には圧倒されました。
豊富な史料を駆使して丹念な検証を行っているだけに読み応えある分、時間かかりましたけどね。
日本史において仏教・神道は抜きにして語れないのですが、戦国時代から江戸時代初期に関してはキリスト教(およびそれと切っては切れない西洋文化の数々)が与えた影響は計り知れないようです。それだけでなく、宣教師などを通して海外が日本をどう見ていたかという点にも気づかされるのです。歴史好きとしてはまさに興味が尽きないですね。


前半はキリスト教と日本人の出会いを、よくある日本側ではなく、宣教師側の視点から描くのが非常に新鮮です。
カブラルのように、日本人を野蛮人扱い決してその態度を変えなかった人物もいましたが、宣教師の多くは日本を新たな新天地として積極的に関わっていき、信者は爆発的に増えていきました。その背景には、戦乱が続く中で疲弊した庶民の間に救いを求める下地があったことを指摘しています。
それと並行して、交易によって経済力を得るために北九州の弱小領主(大村、有馬)の信仰を得、着実に宗教勢力として増していくと同時に多発する既存宗教勢力との摩擦。
この頃の宣教師たちは信念によって万里の波濤を超え教えを広めにきただけあって、織田信長のようにその心根の清清しさによって優遇されたのもあるかと思います。
織田信長だけでなく、大友・大村・有馬のように既得権益の権力と化した寺社への反発が破壊という方向に向かってしまったのはある意味不幸ではありますが、いずれにせよ本願寺のように封建領主の一つとして力を持ちすぎてしまった寺社は淘汰されなければならず、キリスト教伝来はその契機になったのかもしれませんね。


そしてヴァリニャーノの登場により、遣欧少年使節が計画されます。
当時日本からヨーロッパに渡るには現代の宇宙へ旅立つ以上の困難さが予想されたそうですが、西洋と日本の架け橋になるという理念のもと、信徒諸侯の名代ということで正使・副使として二人ずつ選ばれました。彼らの名前だけは教科書にも載っていたので覚えていましたね。

これもヴァリニャーノ個人によって勝手に発案実施されたと不当に貶めているような内容の史料もあって、宣教師側もそのバックにある国や個人の立場によって様々だったと知らされます。


中盤では教科書等では詳しく記載されていなく、意外と知られていない長かった航海の様子と、ヴァリニャーノ*1の企図と違って欧州での使節の盛大な歓迎ぶりが描かれます。
初めて訪れた日本人としては最高とも言える待遇を得たものだと感心したのですが、これは宣教師海外派遣の大いなる果実としての、異教徒国からの使節が本国カソリック系国を訪れたという点が大きかった。しかも素質良い少年らが航海のさなかにラテン語その他欧州文化を吸収していたのが大きかったようです。そこはヴァリニャーノのプランニングとしてはほぼ成功していたわけですね。本人はイエズス会の意向として簡素な待遇を期待していたのですが。
4人揃って訪欧を成功させながらも実際にローマ法王に拝謁できたのは3名だけだった。
著者はこれをキリスト生誕にそれを祝った東方の3博士(王とも)の故事に則り、わざと一人重病扱いにして3人での対面としたのではないかと考察しています。多くの困難を4人揃って越えてきたのに一人だけその栄に与れなかった中浦ジュリアンの落胆はいかばかりか。もっとも後にその中浦ジュリアンがもっとも神学生として優秀で、最後まで信仰を全うしたというのが皮肉ではありますね。
偶然にも使節の滞在期はローマ法王の交代時でもあって、政治的な理由で利用されたりとすでに当初の意図を外れて翻弄される様がうかがえます。



後半は、使節の歓迎ぶりを描く様から始まるものの、国内においては信長の死からキリスト教徒の落日を描く重々しさが出てきます。
後継者争いを経て天下を取った秀吉がキリスト教優遇(というより、交易目的による利用)から一転して迫害へと変わる経過はとても生々しくて興味深い。
宣教師を尖兵としてスペイン・ポルトガルは異教徒国家への侵略を行ってきた歴史があるだけに、国内のキリスト教全盛を受けて、権力者がその危険性を受けて交易による利益より国内維持を優先させた結果だと個人的に思っていました。
しかし筆者は宣教師側も含むいくつかの無思慮な行動と日本国内の反キリスト教側の結託がいくつも重なった結果歯車が動き出してしまったと説くのです。
一例として、宣教師コエリヨによる軍事行動への口出しと軽々しく見せたポルトガルの軍船の威容。天下統一目前の秀吉にとって、充分脅威を与えるものでした。
もっとも猜疑心の強い秀吉を描くばかりにか、時には「おや?」と思わせる記述が見られたのも確か。天下取りの功臣を処分した中に秀長*2が含まれていたこと、史料として信頼性に欠ける『甫庵太閤記』からの引用があることなどです。
だとしても、宗教的な側面だけでなく、この頃始まったカソリック国(スペイン・ポルトガル)の没落とプロテスタント国(イギリス・オランダ)の興隆といった海外情勢がもろに日本の外交へ影響していったさまが面白いです。


技術と文化の発達が海外への雄飛を呼び、やがて近代欧州による帝国主義の時代への予感させる中、世界への扉を閉ざした日本においては使節の4人の足跡も歴史の中に埋もれてしまいました。
もし明治のような進取に富んだ時代であったら、先んじて世界を知ることができた4人には別の道*3が啓かれていたに違いなかったであろうと思わせられました。

*1:ローマまで随員するはずが、職務によってインドのゴアに留まる

*2:多少のいざこざはあったものの、少ない身内として信頼していて、処分を行ったようなことはない

*3:例えばアメリカに密航・留学して帰国した後に同志社大学を創始した新島襄のような