歴史創作メディアの陥穽

今回は一介の歴史好きとして自戒の意味も含めたエントリ。


歴史を学ぶ機会というのは、まず小学校と中学校における社会の授業がありますが、高校になると授業で日本史世界史を選択した人に限られてしまうので、ほとんどの人は中学までに習った内容がベースとなるでしょう。
そして、年号や歴史用語・人名など見るのも嫌だという歴史嫌いな人は別として、子供から大人になっても歴史に興味を持つ人にとって歴史に触れる機会としては、たいてい小説・漫画、更にそれらを元にしたドラマ・アニメ・ゲームになることでしょうね(大学の歴史学科で学んで本職にする人や個人的な趣味で史料を漁るような一部の人を除き)。むしろ授業よりもそういう歴史ものメディアの方が知的欲求を満足させ、更なる興味をかきたてられる部分があると経験上思います。
このへんの過去エントリからも。
『三国志』に関する"アンケート"
【歴史"アンケート"】第2弾!戦国時代


本来、歴史を学ぶというのは、信頼できる史料もしくはそれを解説してある書籍を読むことが一般的でしょうが、そういった歴史解説書の多くが素人にとっては難解でつまらないと感じやすい*1のに対して、ドラマ・漫画・小説というのは同じ史料を元にしても一般向けにするために適宜省略したり、話を面白くするために作者の独自の解釈や創作が多分に入っているものです。
感情移入しやすいように、片方を良く描き、対する方をあえて悪く描くなんてありがちですよね。
だけど、豊富な歴史の知識を持っていてどのへんが史実と違うと判断できるようなコアな人を除き、多くの視聴者にとってはそこで描かれている内容が「史実をもとに誇張や想像を織り交ぜたフィクション」ではなく、そのまま本当にあった歴史の事実だと受け入れてしまいがちです。まして名の知れた著作者であるとその影響が大きい。


かつて司馬遼太郎の書いた歴史小説によって歴史の見方に影響を受けたとかで、司馬史観などという言葉が流行った時期がありますが、考えてみればこれはおかしなことです。
司馬遼太郎が書いたのはあくまでも歴史小説*2であって、新たな歴史的事実として発表したわけではないのに。*3
司馬史観って言葉は、どちらかというと送り出す側(出版社)と一部の読者が好んで使っていた気がしますね。それも小説とはかけ離れたところでいいように利用されたような。*4
もっとも、学生時代に司馬遼太郎ファンでその作品群に影響を受けた私としても笑えない話ではありますが。


せめて今では歴史小説を読んだ後は、当時の事実関係をネットで調べるようにするのが癖になっています。その結果、小説でとても格好良く書かれた人物が実はたいしたことなかったり、壮大な物語が史料にはほんのちょっとしか触れられてなくて*5がっかりすることがあったとしても。
というか、小説ばかりではなく、もっと歴史解説本を読まなきゃです。


【参考】
司馬史観

*1:中には面白くてためになる書籍もあるけれど

*2:丹念に取材を重ねてあったとしても

*3:自身の著作を「フィクションである」とはっきり言明している。

*4:今の「○活」やちょっと前の「品格」と同じように「○○史観」という言葉がやたら使われていた時期があった

*5:ほとんど著者の創造だったということはよくある