亡き友を思ふ(後)

その年の3月初め、辰郎は自宅近所のビルの屋上から飛び降り自殺をした。彼自身の誕生日の直前だった。
知らせを聞いたのは翌日の夜だった。その時期は仕事が忙しくて遅くまで会社に残っていた毎日だったが、偶々その日は仕事がはかどり早く退社できた私だったが、携帯電話に突然の知らせを受け、それまでの高揚とした気分は打ち砕かれた。何と言っても最初は「信じられない」という思いだったが、知らせを告げる友人の暗く沈んだ声を聞いて、事実として受け止めなければならないことを悟った。


中学の同級生が事故で死亡したということなら今までにあった。その中には学校に在籍していた時期に親しくしていた友人もいた。まだ病気とか事故などという注意していてもわずかな確率で遭遇する不幸なら、悲しいけれどまだあきらめがつく。
しかし親しかった友人が自ら死を選ぶという行為にはショックが大きかった。もし私がどんなに苦しい状況に追い込まれても自ら死を選ぶなんて選択肢は考えられないから尚更だった。


息子に先立たれた両親の悲嘆ぶりは当然の如くであったが、友人付き合いしていた私達は喪失感と同時に「なんで自殺なんかしやがった」という思いが強かった。遺書は残っていなかったが、理由らしきことは辰郎の弟から話を聞けた。
卒業して数年経つと、年に一度会う私達以外に友人と呼べる人は無く孤独であったこと。
長男として期待されながらも学業にも家業にも専念できず、高校卒業後は家の手伝いの身分に甘んじて悶々とする日々を送っている内に鬱病の症状が出て通院していたこと。
自殺する一ヶ月前まで鬱が酷かったが、急にさっぱりした様子になったこと。
そして当夜は、普段と変わりない様子でふらっと歩きで買い物に出かけたように見えたこと。


初めて聞く話ばかりだった。なぜ会ったときに少しでも相談してくれなかったのか。いや会った時にもっとあいつの話しを聞いておくべきだった。そんな思いが胸に浮かんだ。
いくら悔やんでも辰郎が戻ってはこない。
自殺する奴は、それっきりで人生は終わって苦しみから解放されると考えているだろうが、残された家族・友人の苦しみ・後悔はずっと続くのだ。何かにつけて彼のことを思い出し、絶対に忘れたりなんかしない。夢にまで見たりするのだ。


今年も3月に家族を連れて辰郎の墓参りに行った。去年もそうだったが、娘は不思議と大人しくて、それでいてニコニコしていていた。おまえには辰郎が見えているのかい?