2期・58冊目 『剣闘士スパルタクス』

剣闘士スパルタクス (中公文庫)

剣闘士スパルタクス (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
ローマ市民は、円形闘技場で繰り広げられる剣闘士試合に熱狂していた。剣闘士試合とは政治家の提供する見世物で、厳しい訓練を積まされ、劣悪な住居に閉じこめられた奴隷同士の殺し合いにほかならない。紀元前73年の春、圧倒的な実力と美貌を誇る一級剣闘士スパルタクスは、自由を渇望する同士たちと剣闘士養成所から脱走を企て、総勢74人の剣闘士奴隷が「自由」を手にした。しかしそれは、ローマ軍との苛烈な戦いと奴隷軍迷走の始まりでもあった―。ローマからの逃走か破壊か。叛乱の英雄・スパルタクスの活躍と苦悩を描く渾身の長篇小説。

カエサルを撃て』と並んで反ローマ視点の物語。塩野七生ローマ人の物語』が社会制度の面などから文明的な国家としてローマを書いているのに対し、佐藤賢一は飽くなき膨張を繰返す侵略者・ローマによって虐げられる側から描いているのです。
いやぁ、歴史小説って、こうやって違う視点から読み比べてみると面白いもんですね。


主人公・スパルタクススパルタカス)は、一級剣闘士として絶大な人気を誇っていても、円形の競技場の中での話。ローマの侵略によって故郷トラキアから無理やり連れて来られた奴隷の身分には違いなく、さらにスポンサーであるローマ人富豪の機嫌を損ねると命まで危うくなる立場。
苦労して脱走した結果、念願の自由を手に入れたものの、今度は叛乱軍のリーダーとしての重い責任を背押されることになるとは。こういった皮肉は現代でも通用しそうだなと思ったのですが。「自由」とは不自由な立場だからこそ輝いて見えるのかもしれませんね。


全体的にスパルタクスの心情中心で構成され、生々しいです。しつこいくらいに。進軍の方針や、部下(かつての剣闘士仲間)との調整など様々なことにうじうじ悩む場面が多いですが、やはり戦う為に生きてきた剣闘士は戦いの中でこそ本領を発揮するのです。
前半のヤマ場・ガリア人剣闘士との戦いと並んで、クラッススによる包囲網突破から最後の戦いの様は迫力あるアクションが繰り広げられて見ものです。
でも終盤は場面が唐突に変わることが多くて、ちょっと終りを急ぎすぎかなって気がしなくもなかったですが。

2期・59冊目 『悪人列伝 近代編』

久しぶりにこのシリーズを読むことになりました。4冊目では近代編(江戸後期〜明治)です。

後世の創作物に多く登場し、実像よりも悪人ぶりがグレードアップされている人物が中心のようですが、天一坊や高橋お伝はほとんど知らなかったなぁ。
天一坊は八代将軍・吉宗の落胤を名乗った詐欺師みたいな人物。*1高橋お伝は裕福な商人を殺害して金を奪った上で、仇討ちと称した作り話で罪を逃れようとした悪女。それぞれ昔は知名度があったようですが、他の悪人と比べるとどうにも小物のようです。


この中で悪人ぶりが際立つのが鳥居耀蔵井上馨
鳥居耀蔵は遠山の金さんの敵役として一般的にも悪人ぶりが名高い人物。頑迷固陋な保守主義者で蘭学や西洋技術への憎悪が私怨と絡み、老中・水野忠邦の下で蛮社の獄を引き起こす。水野の失脚に殉じていれば、あそこまで悪名を残さずに済んだのでしょうが、風向きが変わると水野さえ裏切るという悪辣さです。
井上馨は、井上聞多と呼ばれた幕末の志士時代の活躍が、明治維新後の政府高官となると一転して金の亡者と言えるほどの政財界の癒着を起してしまった人物。
どちらにせよ、その働きは個人の持つ能力の高さと信念の強さあってのことで、波乱の時代の憎まれ役となってしまった面もあるようです。
特に井上馨については、明治政府における外交・経済に関しての功績が実を結ぶのはもっと後になってしまったので、後世になって悪い面が強調されすぎなのかもしれません。


大槻伝蔵田沼意次の記述を読むと、2人に共通する面があるように思いました。

  • 元は身分が低いものの、主君に気に入られて成り上がった
  • 経済などの能力に長けて財政の立て直しに貢献
  • 主君の死後まもなく失脚、敵対者によって悪評が強められる

彼らには主君を誑し込んで出世したという悪評があるのですが、それはほぼ後世のでっちあげらしく、実力相応の働きを正しく認められた結果なのに、代々高禄を食んでいる門閥層に疎まれたのではないかというのが著者の考えです。
実力と相応の意欲を持つ者が出世するというのは現代では当たり前ですが、身分が細かく固定されていた江戸時代のこと。既得権益にしがみついている立場からすれば、身分の秩序を乱す者はそれだけで敵対者となってしまうのです。
成り上がり者にとっては後ろ盾となる者が無くなってしまうと、弱みをつかれて何もかも失ってしまう非情な世界。ある意味現代でもそれは言えるのでしょうが、近代以前ではそういう面は強いようです。


田沼意次について、江戸時代は賄賂が常識となっていたのに彼だけが格別悪評高く言われる点を指摘しているのはさすが。*2
しかし、政策の拙さや人格的な卑しさでやっぱり著者はお嫌いな様子。大石慎三郎氏らによる史料の検証と人物の再評価は1990年代に入ってからなので、ある意味仕方がないのでしょうね。

*1:著者は葦原将軍のような誇大妄想症患者と指摘

*2:彼の後を継いで寛政の改革を行った松平定信でさえ職に付くために賄賂を行っていたとか